2011年5月8日日曜日

家庭の幸福は諸悪の本(もと)

 
 このたびの「東日本大地震」にて被災された方々にお見舞いを申し上げるとともに、災害にてお亡くなりになられた方々のご冥福を、心からお祈り申し上げます。

 ベトナムに戻って来ました。いやmmm毎日暑い!そんな最中に引越しなんてしたせいで体のアチコチが痛いです。老化には勝てませんわ。・・・はい。

 とわ言っても、震災および放射能漏れで避難している多くの人を思えば、こんな苦労はどうって事ないです。「泣き言」言っている暇はありません。時間は待ってはくれないのですから、今やるべき事を粛々と片付けていかねば人生なんてあっと言う間に終わってしまいます。・・・この年になってみるとシミジミ感じますわ。

 さて、少し前に文芸評論家の山崎センセイが、脳科学者の茂木センセイを軽く?批判していたのを目にしたのですが・・・


文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ 『毒蛇山荘日記』

<転載>

2011-04-23

テレビ文化人・茂木健一郎の正体が暴かれた?

<抜粋>

ところで「週刊金曜日」という広告なしのメディアが、原発事故と、その後のマスコミ界における有識者たちの原発安全宣言、あるいは原発擁護発言の裏に、東電あるいは電事連の莫大な資金を駆使し、テレビや新聞を巻き込んだ「メディア買収工作」があったことを暴露している。そこで買収されているのではないかと槍玉あがっている人物の一人が、脳科学者・茂木健一郎だったというわけである。茂木は、最近、小沢一郎擁護論者としての発言も繰り返しているが、実は原発擁護発言も繰り返していたらしい。むろん、僕は、原発推進論や原発擁護論が間違っていると言いたいわけではない。僕自身、反原発論者でも反核論者でもない。問題は原発を擁護したかどうかではない。原発擁護論の言説が、東電や電事連などのメディア戦略に迎合し、いわゆる言説を「買収」されたものだったかどうかにある。つまり、こういうことだ。もし、茂木が、その思想信条に忠実に原発推進論や原発擁護論を主張していたのであるならば、そのことを反省する必要も謝罪する必要もない、ということだ。

</抜粋>

</転載>


 山崎センセイは何度か茂木センセイについて言及した記事を書いているのですが、まぁ、それだけ「気になる存在」ではあるという事ではないか?・・・と。

 で、ワタシの受ける印象として、山崎センセイも茂木センセイも似たもの同士なのではないかと思うワケです。お二人の根本的な思考、思想には似た部分が感じられたりするワケです。最近の茂木センセイの記事ですが・・・


茂木健一郎 クオリア日記

<転載>

2011/04/25

震災以降

震災以降、何か気分が変わって、まだその中にいる。

震災前、ぼくは、日本の大学入試のあり方や、新卒一括採用のあり方、記者クラブ、それから、ルールやコンプライアンスを出来損ないの人工知能のように押しつける日本の社会のあり方について、大いに違和感を抱き、そのことを表明してきた。

震災が起こり、みながその対応にかかり切りになった。その時、ルールやコンプライアンスなどを杓子定規に当てはめることが無意味だとみなが気付いた。そのこと自体は良かったけれども、気付いてみると、依然として古い日本の制度は残り、システムは存在し、組織は続いている。

ぼくは二つの意味で無力感にとらわれた。一つは、いくら言葉を尽くしても変わらなかったのに、震災という外部要因であっけなく変わってしまったということ。それから、震災の後も、アンシャン・レジームは化石のように残り続けているということ。

ぼくは次第に、社会の中で意味のわからないシステムや組織が存続し続けている理由は、悪意よりもむしろ単純に「できない」のだと考えるようになった。記者クラブに頼る記者は、それ以外のやり方を知らないのである。ペーパーテストだけに頼る大学入試は、それ以外の手段を尽くす方法もリソースもないのである。新卒一括採用を続ける企業は、それ以外の採用の仕方を知らないし、できないのである。

みんなが目一杯に現場を生きているのだとしたら、その目一杯を超えるのは難しいだろうと思った。変化のためには、結局は、個々人がスキルを上げるしかない。そう思い至った時、ぼくは大乗から小乗になった。

自分にもできないことがある。できていないことがある。ひとりの人間として、できないことをできるように努力することが、結果として、日本の復興や、日本という国が世界において輝きを取り戻すことに貢献するのではないかと思うようになったのである。

4月 25, 2011 at 08:07 午前
Permalink

</転載>


 「変われない」・・・とはどういう事なのか?を考えてみるに、とどの詰りは・・・

毎日の生活に縛られている。

・・・に他ならないと、ワタシは思うワケです。・・・というか、自分の生活に照らし合わせてみても、そう実感する次第です。

 自分の生活、家族を守るという権利は、いうなれば

善悪の彼岸にある。

 人間の・・・というか、動物の根本的な欲求なのだと思うのです。誰も他人に向かって、「ワタシの為に死んでくれ。」と強制する権利はありません。だからこそ以前の記事、「小さなストーリー、大きなストーリー 」で少し触れたのですが、個人個人が利益を求める行為を否定することは出来ませんが、利益の追求にばかり目が行くと社会そのものが歪むのではないか?・・・とういう疑問を拭いきれないワケです。

 この事は若かりし頃に太宰治の短編、「家庭の幸福」を読んでからずっとワタシの心の中に引っ掛かっている命題なのですが、ちなみに山崎センセイも太宰治を評価されているようで・・・


<転載>

「にんげんの底からの革命」とは何か?

<抜粋>

さて、太宰治に「かくめい(革命)」という短編小説がある。実際は短編小説というより小説的断片というようなものだが、これがなかなかおもしろい。短いものなので全文を引用してみる。

「かくめい」

太宰治

じぶんで、したことは、そのように、はっきり言わなければ、かくめいも何も、おこなわれません。じぶんで、そうしても、他におこないをしたく思って、にんげんは、こうしなければならぬ、などとおっしゃっているうちは、にんげんの底からの革命が、いつまでも、できないのです。

</抜粋>


 手前味噌になりますが、ワタシが繰り返してきた「個人革命」とわ、太宰治が言うところの「にんげんの底からの革命」に通じるものであり、また、茂木センセイが言うところの「小乗」にも通じるものと自負しています。その点で言えば、太宰治を評価する山崎センセイと茂木センセイは、図らずも同じ境地?に到達したとワタシには見受けられるワケです。・・・はい。

 で、「にんげんの底からの革命」と、「小乗」に共通するところは何か?・・・をワタシの言葉で言い表すならば、それは・・・

罪の意識

・・・をワタシたちひとりひとりが持ち得るか?にかかっていると思うのです。

 キリスト教的に言うならば、イエス・キリストがゴルゴダの丘に辿り着くまで背負い続けた十字架とは、ワタシたち全ての「罪」であったワケです。ワタシたちが「自分自身の罪」を認識出来ないが故に、イエス・キリストが代わって罪を背負い、死を以って贖ってくれた。・・・と。

 イエス・キリストの死によって、それまでの「人間の罪」は一旦は贖罪されましたが、それ以降にまた新たに「人間の罪」が積み立て?られ続けているワケで、いつかまた、誰かが「身代わり」になる日が来るやも知れません。ワタシたちが「自分の罪」に気付かない限り・・・。

 ハナシが宗教臭くなりましたが、今日的に見れば「先進国」による「後進国」の搾取にも例えられるでしょう。先進国の国民の贅沢は、後進国の低賃金の労働力に支えられているのはもうみなさんご承知のハズですが、その事実に「罪の意識」を感じる人はどれだけいるでしょうか?

 そういった「罪の意識」の欠如が巡り巡って、原発災害としてワタシたち自身に降りかかって来ているとは考えられないでしょうか?

自分さえ良ければイイ!

 企業も個人も考えることに大差はありません。企業も個人も「既得権益」を守ることに血道をあげ、より大きな共同体、より大きな生活圏を守るという意識が欠如したが故に、今回の未曾有の原発災害を招いたとは考えられないでしょうか?

 東日本の復興、新しい日本の創造は、先ずそこから・・・「にんげんの底からの革命」から論じられなければ、同じ過ちを何度も繰り返すだけだと思う次第です。

 その点で、菅首相の浜岡原発の停止依頼?は、「庶民の生活圏の保護」という意味で政治家として正当な判断であろうし、それを支持した鈴木自動車の鈴木会長「質素な生活」という考え方も、ただ売りまくればいいという従来の企業家とは一線を画する、社会調和を旨とする「新しい時代の企業家」の意思表明のようで、ワタシ的には嬉しい限りです。

 ただね?鈴木会長がご高齢にも係わらず「進歩的」な考え方なのに、あまたの若い企業家が未だに古い考え方に縛られているのは、何とも・・・

残念!

・・・の一言に尽きますわ。・・・あ、ソフトバンクの孫社長を忘れてましたわ。

 ま、今回の地震とそれに伴う原発事故ですが、「国家的災難」と言われ「国家」で対応しなければならない論調であり、勿論それはそうなのですが「国家」とか「国」とは何ぞや?と自問するに・・・

特定の生活圏を持った人々の集団

・・・と、ワタシは勝手に定義しているワケで、したがって今回特に原発事故によって多くの人の生活圏を奪った東京電力は、ワタシの中では・・・

反国家的企業

・・・と位置付けられるワケです。・・・はい。

 その他の電力各社もこのまま原発を稼動させ続け、庶民の生活圏を破壊する行為を続けるのなら、いずれ反国家的企業として断罪される日が遠からず来るように思える次第です。

 あ・・・最後に・・・

君子豹変す。

・・・とも言うではありませんか。茂木センセイが過去、「原発推進派」だったとしても、その危うさを理解して「原発反対派」になったのなら、それはそれでイイじゃありませんか。過去の言質を捉えて「ああだ」「こうだ」と批判するのは「大人気無い」ようにワタシには思えるんですケド・・・ね?山崎センセイ?


でわっ!