2011年9月2日金曜日

最近、思ったこと・・・2

 このたびの「東日本大地震」にて被災された方々にお見舞いを申し上げるとともに、災害にてお亡くなりになられた方々のご冥福を、心からお祈り申し上げます。


 えM、前回は「精神力」・・・つまり、「心の強さ」について述べたワケですが、ワタシは別に「精神論者」ではアリません。竹槍でB29に・・・日本刀で黒船に立ち向かっても・・・勝てるとは思えません。お互いが同等の条件の下で競い合った場合、勝敗を決めるポイントのひとつになるのが精神力だろうと思うワケです。要は、プラスアルファを持っているか?・・・だと。

 再び引き合いに出してアレですが、「男子サッカー」が練習量や技量不足を「精神力」だけでカバーしようとしても、旧日本軍と同じ過ちを繰り返すだけでしょ?ま、条件的な劣勢を「戦略」で覆せないワケでもありませんが・・・。

 とにかく前回言いたかったのは、「心(精神)に性別は無い。」・・・という一点です。少なくともワタシにはそう思えますし、そうすると結果的に、「心と体は別物である。」という事になるのですが、そうなると、「アイエス」とか、「ホモセクシャル」とか、心と体の不一致に悩んでいる人たちに、


それはあたり前なんだよ。


・・・とも言えるワケです。はい。

 体が先天的なものであるのに対して、心は後天的なもの・・・「習慣」で形作られるのであれば、体が成長して「性徴」が顕著になることで自分の性を意識し、それを受容するのが一般的な流れであり、その際に、「男の子は男らしく」「女の子は女らしく」と育てられることで、性に合わせて心も選択されていく・・・と。

 しかし一方、その段階において、自分の身体的な性に合わせて心を変容させることに躓き、心と体の分離によって生じたストレスから、後年、いわゆる「ホモセクシャル」に転身するケースもありえるワケで、恐らく、幼いながらも自意識が既に十分強く、心が体の奴隷になることを拒んだとも言えます。「ホモセクシャル」と呼ばれる人たちの「独自の美意識」は、こうした自意識の強さに由るもとも考えられます。

 ワタシたちは・・・少なくともワタシは、今まで「体=心」、もしくは、体と心の「2重構造」の意味について、あまり深く考えたことがありませんでしたが、宗教の世界では当たり前の事として扱われているワケです。尤も、「魂」という言葉でですが・・・。マニ教などはハッキリと、


肉体は魂の監獄である。


・・・と、言い切っているくらいです。だから子孫を残すなどトンデモナイことで、肉体がある限り、人間は永遠に本来自分がいた次元に帰れないという教義を持ちます。(ウル覚えですが・・・)

 ま、それはそれとして、「心に性別は無い」という理屈からすれば、では何故?男と女が求め合うのか?といえば、それはもう、「オス」と「メス」の本能的な欲求でしかないでしょうな。「恋愛」にしても、ほとんどの大人は「恋」と「愛」は別であることを理解していますが、一般的に思春期・・・大人への準備段階期に若者は「恋」をするもので、これは体が「子孫を作る準備が出来た」時期でもあり、「子孫を残せ!」と命令する、脳内分泌ホルモンの影響があるのではないか?・・・と。で、脳内分泌ホルモンも無限に出続けるワケではないので、「恋」もやがて醒める。・・・と。

 で、「恋」の対象として、男性は母親に。女性は父親に似た異性に惹かれるものですが、これも「種の保存」という本能からすれば、今まで自分を育ててくれた存在=繁殖能力がある。・・・という本能的な「刷り込み」が行われるものと思われます。

 次の段階になると、生まれた子供(子孫)を保護する本能が「愛」という行為に現れ、「子孫を守れ!」と命令する脳内分泌ホルモンが働き、女性の場合は「母乳」が出るようになったり、男性の場合は・・・男性の場合は・・・男性の場合は・・・何でしょうね?取りあえず「家族を守る」という意識の芽生えですかね?

 したがってマニ教がどう言おうが、子孫を残す本能が人間にある限り、マニ教が人々に受け容れられるのは難しかったでしょう。ヒンズー教のように、「現世利益」を教義に組み入れた宗教の方が、人間の本能に合っていたということです。

 今回の本題は「心(魂)と体」なのですが、あらゆる宗教が「心(魂)と体」を別々に扱っていますし、天国や地獄という概念も共通していますよね?で、ワタシが思ったのは(ワタシの自論=「心(魂)に性別は無い。」に基いてですが・・・)、そういった宗教上の天国とか地獄とかに描かれる死後の姿がね?男の姿であったり、女の姿であったりで、アレ?・・・と思ったワケですよ。


アホか?つまらないこと考えて。


・・・と、思われるでしょうから、「死後の世界」はアレとして、話を「現世」に戻します。

 前回から、「心に性別は無い。」という自論を述ているワケですが、そこから一歩踏み出し、「心と体は別物である。」という事実?に向き合うワケですが、で、あれば、形而下の存在・・・肉体と、形而上の存在・・・とを、意識的に分けて考える事も可能であり、そうするとワタシが他者と接する場合に、肉体で向き合うか?それとも心(精神)で向き合うか?という選択も生まれてくるワケです。

 で、心(精神)で向き合った場合、「心が共鳴」する相手というのは年齢や性別とは無関係だろう。・・・という当たり前の事に、改めて納得した次第です。はい。

 陽もすっかり沈み、タイガービールの酔いも回り、そんな話をしながら心地良いひと時をローカル居酒屋で過ごしたワケですが、にしても、コム・チン・ズンチャウ(広東風チャーハン)の中に入っているネム(ベトナム風ハム)の酸味には、未だに馴染めないなあ・・・。次回はコム・チン・シンガポール(シンガポール風チャーハン)を頼もう!


でわっ!