2012年8月8日水曜日

それはチョット・・・


 IWJに、安富センセの動画がUPされていたので早速CHECKしたのですが、今回は少々疑問が残るご意見もありました。

 始めの方でインドの「マハトマ・ガンジー」を引き合いに出し、「独立」について語っているのですが、ま、ワタシも概ね同意見です。しかしその後、「独立」の概念が「言語体系」に及んだところで、


それはチガウんじゃね?


と、疑問に思ったワケです。「日本語」の中に欧米由来の概念(例:人権)があるからといって、日本語としての「人権」の中身はカラッポであるとは、俄かに納得出来ませんなあ。



 過去、植民地支配を受けた国々は、「宗主国」の外来言語体系とは別に「民族」の持つ土着言語体系を持っており、そうした土着言語体系と外来言語体系の「相克」から、「独立精神」は芽生えるのだ。・・・ということらしいです。

 さらに、土着言語体系と外来言語体系は相容れず、教育分野・・・特に高等教育(大学)の場では、外来言語体系の独壇場となるのが常であるが、日本においては明治以降「翻訳」という作業によって、土着言語体系を捨てることなく高度な教育を行っており、そのことが却って「独立意識」の見えない「足枷」になっている。・・・ということらしいです。

 故に、本来?の日本語を取り戻すために、「古語」を勉強する必要があると説くワケですが、何を以って「古語」=「原日本語」とするのか?という「定義」無くしては、安富センセの「言語的独立論」は意味を成さないように思うワケですよ。

 そもそも現代の日本の文化、生活スタイルは、古くから大陸由来のものが殆どであり、「仏教」はインドから。「律令制」は中国から。「稲作」は東南アジアから。・・・欧米の文化の輸入なんて、「つい最近」の出来事に過ぎません。

 江戸時代ですら「公文書」は「漢文」で作成されていましたが、だからといって、日本が中国の「支配下」であったとは思えません。それどころか、「漢字」をあれこれイヂクリまわして「カタカナ」「ひらがな」を創作し、「日本独自の文字」すら生み出しました。

 「漢字」が輸入される以前から、「話し言葉」としての「日本語」は存在していたワケで、輸入された「漢字」ではどうしても表現しきれない「原日本語」を表現するのに、「カタカナ」「ひらがな」が必要とされたワケです。そして「漢字」「カタカナ」「ひらがな」のミッツを、ワタシたちは現在も巧みに使い分けているワケです。




よみがえる日本語
ことばのみなもと「ヲシテ」 (単行本)

青木 純雄 (著), 平岡 憲人 (著), 池田 満 (監修)


 そうした「素養」が日本人にあったからこそ、「翻訳」=「造語」という作業もスムーズに進んだのでしょう。「解体新書(ターヘル・アナトミア)」を著した杉田玄白は、オランダ語が全く分からないままに「原典」の翻訳に取り組みましたが、それは、刑場で処刑された罪人の死体を「腑分け」しながらの、まさに「肉体的作業」と言えるでしょう。


杉田玄白 - Wiki



 
 オランダ語に「新しい日本語」を与えながら、その日本語には意味(質感)が存在するワケです。
 
 同様の作業は様々な分野にても行われ、「表意文字」である「漢字」を永らく使い、その意味を十分に「吟味」した上での「翻訳」であるからこそ、「本家」である中国においても、当時の日本によって「翻訳」された言葉が広く使われていると思うワケです。

 そうした「翻訳」した言葉と「独立意識」を結びつけるならば、中国も同様に、「無意識下の植民地」ということになるワケですが、如何に?

 えwwwと、くしくも安富センセが平議員との対談の中で語っていますが、日本の地方(田舎)には埋もれた文献(古文書)が、欧米とは比べ物にならない程存在すると。

 それが何を意味するかというと、日本人は雑多な民族の移民によって成り立っていることの証明でもあります。



 郷土史を残そうとする情熱?は、民族の記憶(アイデンティティー)を残そうとする本能です。くどいようですが、


日本人はハイブリット民族


なのですよ。単一民族なんかじゃありません。分かりやすいところで「ダルビッシュ投手」を例に挙げれば、お父さんはイラン人でお母さんは日本人です。



お父さん



ダルビッシュ


 これがね?2~3世代日本人と混血を繰り返せば、見た目は「100%日本人」でしょうし、そのうち自分のオリジナリティーなんて、どうでも良くなるんじゃないんですかね?つまり、


日本人になる


・・・日本で暮らす、「ひとりの人間」になるワケです。



 そうした人たちによって、「日本」という国は「歴史」を重ねて来たワケですが、そうして「共存」してきた人たちとは別に、「村社会文化」とは、頑なに「血族主義」を守ろうとする「陰の日本史」でもあり、これからワタシたちが克服しなければならない問題でもあります。近い将来、心ある歴史研究家によって


歴史のリロード


が成され、そうした「陰の日本史」と向き合う日が来るかも知れません。

 いつもの如く話が逸れましたが、要は「古語」などという日本語は幻想に過ぎないと思うワケで、人が混ざり合えば言葉も混ざり合うし、その混ざり合った言葉を「古語」=「原日本語」と、誰が?どのように?「定義」できるのか。そして、その「根拠」は何なのか?


日本語はワタシたちのもの。


 無理に?「独立意識」を絡めなくてもイイんじゃないの?・・・と、思った次第です。




人間ナメんなよ!


でわっ!