2013年3月9日土曜日

真実一路

 今回はコメント抜きで、ネット上の記事を3本転載します。


河信基の深読み - 旧日本軍パイロット出身の北朝鮮空軍創設者
2007/7/13(金) 午後 5:12



 旧日本軍で神風特攻隊に送られそうになったパイロット出身でありながら、北朝鮮空軍の創設者となった波乱の人生を送った人物がひっそりと亡くなった。

 祖国解放戦争勝利記念館講師のリ・ファル中将(写真前列中央金日成の右)がその人で、3日付の朝鮮中央通信によると、金正日総書記は深い哀悼の意を表し、霊前に花輪を送った。
http://www.kcna.co.jp/calendar/2007/07/07-04/2007-0703-014.html

 リ・ファルは日本では聞きなれないが、「北朝鮮空軍の歴史」そのものであった。

 「ディリーNK」は05年に脱北した記者の次のような記事を掲載した。
 
 日本の軍人として活躍した名パイロットであった。平安北道のヨムジュ出身のリ・ファル将軍は、日本の名古屋航空兵学校を卒業し、飛行時間2000時間を越える旧日本軍の名パイロットの一人であった。

 日本敗戦直後、日本軍出身のパイロットを集め日本が新義州飛行場と戦闘機を破壊するのを防いだ。それが評価されて新義州航空隊隊長となり、20名の日本軍出身パイロットともに、日本軍の残した練習機などを使ってパイロットを育成した。

 さらに、朝鮮航空協会名誉会長に自ら納まり、早くから空軍創設に力を入れた金日成の意を受けて、航空隊の第一顧問であったメクシムソ連軍少佐とともに北朝鮮空軍創設に尽力した。48年のソ連軍撤退で譲り渡された IL-10、Yak-9戦闘機などで航空師団を編成、師団長はソ連が推したワン・ミョン、リ・ファルは副師団長となった。1950年い朝鮮戦争が勃発すると、航空師団長、空軍副司令官となり、さらに、司令官、共和国英雄の称号を受けた。
  
 しかし、出身成分が引っかかって、咸鏡南道咸興市のカダム電気機械工場労働者として追放され、10年以上も辛酸をなめる。

 だが、金日成は「宗派主義者の策略であった」としてピョンヤンに呼び戻し、中将に任命、祖国解放戦争勝利記念館講師の職責を与える。

 金日成はリ・ファルが南朝鮮軍の航空司令官の誘いを断ったことを高く評価し、彼をモデルに「赤い翼」という映画を制作させる。祖国を失った青年が日本で優秀なパイロットになるが、神風特攻隊になって死ぬしかなかった。しかし、金日成が率いる祖国を慕って飛行機とともに馳せ参じたというものだ。
http://www.dailynk.com/korean/read.php?num=43606&cataId=nk00100

 リ・ファルは朴正煕元韓国大統領と経歴が似ている。

 彼らのように、解放後、建国運動に身を投じた旧日本軍出身者は少なくない。旧日本軍には反日地下組織が結成されていたからだ。呂運亨の朝鮮建国同盟の秘密軍事組織・建国同盟分盟軍事委員会は満州軍の朝鮮人将校の大半を網羅していた。

 朴正煕もその一人で、日本陸軍士官学校を卒業して満州軍中尉として終戦を迎え、故郷の南朝鮮(現在の韓国)に戻り、南朝鮮労働党秘密党員として活躍する。やがて転向し、クーデターを起こして軍事政権を樹立、開発独裁の先駆者となる。
 
 北朝鮮出身のリ・ファルは、北朝鮮軍創建に合流する。金日成は陸軍は抗日部隊出身者を中心に編成するが、特殊技術を要する空軍には旧日本軍出身者を重用した。日本で学んだ自然科学学者が歓迎されたのと同じ理屈である。

 だが、金日成支配体制が強化される中で、中国からの延安派とともに旧日本軍出身者も出身成分が悪いと迫害される風潮が現れ、スパイ容疑などあらぬ疑いをかけられて粛清されるものが後を絶たなかった。

 リ・ファルも例外ではなかったが、金日成はその功績を忘れなかったようだ。

 実際、朝鮮戦争初期、建軍間もない北朝鮮の空軍機が姿を現したことに米韓側は驚き、制空権を握られて大苦戦している。
 
 リ・ファルは中将(韓国の少将)、祖国解放戦争勝利記念館講師のポストを与えられるが、決して厚遇されたとは言えない。

 6日後に死去したチ・ギソンはリ・ファルい比べそれほど実績があるとは思えないが、上将(中将)まで昇進し、副総参謀部長、金日成軍事大学総長、朝鮮反帝闘士老兵委員会副委員長、最高人民会議代議員を歴任している。 



日本で暗躍する北朝鮮スパイは「陸軍中野学校」を手本にしている
(SAPIO 2010年8月25日号掲載) 2010年9月6日(月)配信
文=惠谷治(早稲田大学アジア研究機構客員教授)

 日本人拉致、韓国要人暗殺、大韓航空機爆破……、そして韓国軍艦爆沈。どれも北朝鮮による謀略工作と認定されている。北朝鮮は、これらを実行する工作員の養成に力を注いでいるが、養成機関である金正日政治軍事大学では、意外にも旧日本陸軍の手法を使っているという。ジャーナリスト・惠谷治氏が北朝鮮諜報機関と旧日本軍の奇妙な関係をレポートする。

 数々の謀略事件を引き起こしてきた北朝鮮。その謀略工作を35年間指揮してきたのは金正日である。1975年、謀略組織の実権を握った金正日は、朝鮮労働党主導の赤化統一のために「指導核心」工作員を養成しなければならないと強調、以来、金正日に忠誠を尽くす工作員を生み出してきた。

 金正日が工作員養成の模範としていると思われるのが、旧日本軍の諜報員養成機関「陸軍中野学校」である。

 盧溝橋事件をきっかけに日中戦争へと突入していく昭和12(1937)年、陸軍参謀本部第2部に謀略を専門とする第8課が新設された。そして、謀略・秘密戦を任務とする情報勤務要員養成所(防諜研究所)が東京・九段に設立され、昭和13年7月、予備士官学校の卒業生19名が1期生として入所した。

 翌年3月に防諜研究所は東京・中野の電信隊跡地に移転、「後方勤務要員養成所」と改称され、8月に1期生が卒業した。昭和15年8月の「陸軍中野学校令」によって、後方勤務要員養成所は新たに「陸軍中野学校」と呼ばれるようになった。

 中野学校については、昭和41(1966)年に映画化され『陸軍中野学校』という5本のシリーズが制作されている。金正日が中野学校に興味を持ったのも、この映画の影響によるものと思われる。

 当初は諜報要員を養成していた中野学校も、戦局の変化とともに遊撃戦要員の養成に重点が移った。昭和19(1944)年9月、静岡県二俣町(現在の静岡県浜松市天竜区)に遊撃隊幹部要員養成のための二俣分校が開設された。昭和49(1974)年までフィリピンのルバング島で、遊撃戦を展開していた小野田寛郎少尉は、陸軍中野学校二俣分校の1期生だった。

 小野田少尉が日本に帰還したのは、金正日が謀略組織の実権を握る前年だった。映画好きの金正日は『陸軍中野学校』シリーズを見て、中野学校の教育方針に感銘し、小野田少尉のような命令に忠実な卒業生(軍人)が現実にいることを知って、中野学校を工作員(諜報員)養成機関である金正日政治軍事大学の模範にしたと考えられるのだ。

 戦前「帝国臣民」として中野学校で学び、戦後に北朝鮮に帰国した3人の朝鮮人卒業生が、金正日政治軍事大学の教官をしていたという情報もある。

 金正日政治軍事大学の教育カリキュラムを見ると、中野学校の学課(講義)と術課(実技)を採用しているように思われるが、唯一の違いは映画学習である。

「大学では毎週、外国の格闘技の映画など、さまざまな珍しい映画を見ることができた。〈略〉日本のアクション映画のほかに、学校では第二次世界大戦中、日本の陸軍中野学校で実施していた教育の精神を見習って、学生を教育していた」

 金正日政治軍事大学を卒業した元工作員の安明進氏は、手記『北朝鮮拉致工作員』(徳間書店刊)のなかで、在学中に映画『陸軍中野学校』を観たと書いている。金正日は工作員教育のため『陸軍中野学校』シリーズや『ナバロンの要塞』などのスパイ映画を学生たちに鑑賞させ〝洗脳教育〟を行なっていた。

 金正日が中野学校出身者を高く評価していることは、専属料理人だった藤本健二氏の証言からも明らかである。金正日とピストル射撃に興じていた藤本氏が高得点をマークすると、「藤本はやっぱり中野だ」と叫んで喜んだという。


謀略用兵器は旧日本軍の模倣!?

 この陸軍中野学校と不可分の関係にあるのが、スパイ道具や特殊兵器を開発する陸軍登戸研究所である。

 登戸研究所は、防諜・諜報・謀略・宣伝という「秘密戦」に必要な資材や機材、特殊兵器を研究・開発していた秘密施設で、近年になって全貌がようやく明らかになった。現在、登戸研究所の一部が神奈川県川崎市にある明治大学生田キャンパスに「平和教育登戸研究所資料館」として保存・再生され、一般公開されている。

 登戸研究所は、第1次世界大戦後に陸軍科学研究所として設立された。昭和2(1927)年、日本で初めてスパイ器材や秘密兵器の研究・開発のため、陸軍科学研究所に「秘密戦資材研究室」が付設された。

 登戸研究所は4つの研究部門(科)に分かれ、第1科は風船爆弾、特殊無線機、電波兵器、人工雷(気象兵器)など特殊兵器の開発、第2科はスパイ道具や憲兵用器材、蛇やキノコなどの毒物、化学合成の毒薬、生物(細菌)兵器などを担当し、第3科は経済謀略のための偽札製造、第4科は開発された秘密器材の量産や使用指導にあたっていた。

 旧日本陸軍の細菌兵器といえば、731部隊(関東軍防疫給水部)の活動が有名だが、登戸研究所では731部隊のような人間の病原菌ではなく、植物や動物に対する細菌を兵器化していたのである。

 一般的に登戸研究所は「風船爆弾」で知られている。研究所第1科第1班で開発されたコンニャク糊と和紙による「ふ号(風船)」兵器は、当初は爆弾ではなく細菌兵器を積載し、アメリカ本土を攻撃する計画だった。研究所第2科第7班では、牛、豚、羊など家畜の病原菌を研究し、昭和19(1944)年5月までに、牛の伝染病である「牛疫」のウイルスの生産、培養、粉末化に成功、感染実験も完了していた。

 9月、気球に牛疫ウイルスを搭載する作戦計画が参謀本部で検討されたが、東条英機首相は「牛疫でアメリカの牛が全滅した場合、報復として我が国の稲が収穫期に全焼させられる恐れがある」として、細菌兵器の搭載は認めなかった。

 自動高度保持装置を備えた世界初の「大陸間横断兵器」となった風船爆弾は、11月から半年間で9300個が放球され、約1000個が米本土に到着したと推定されている。風船爆弾による被害は軽微だったものの、アメリカ人を戦々恐々とさせるに十分だった。

 研究所第3科が全力を注いだ偽札製造は、中国国民政府の「法幣(銀行券)」を偽造し、ドイツから最新式ザンメル印刷機を輸入して大量印刷を行なった。当時の日本の国家予算は200億円だったが、偽札は45億円相当が印刷され、中国での戦略物資購入の代金などに使われたという。

 また、研究所第2科では、秘密通信用の特殊インキ、ライター型カメラ、マッチ箱カメラ、缶詰型爆弾、万年筆型毒針、消音ピストル、時限発火装置、尾行確認用小型バックミラーなどのスパイ道具を開発していた。

 また、登戸研究所の技師は中野学校に出向き、出張講義も行なっていた。前述の映画『陸軍中野学校』シリーズ第3作目の『竜三号指令』には、登戸で作られたという「メガネの弦型ナイフ」や「靴底隠しナイフ」によって市川雷蔵扮する主人公の椎名次郎が危機を脱する場面がある。

 金正日は中野学校を含めた旧日本軍のみならず、自衛隊も屈強の軍隊とみて恐れているという。そうした対日コンプレックスを持つ金正日であれば、中野学校と関係の深い登戸研究所の活動にも注目したはずである。

「414連絡所は、北朝鮮で一番優秀な人材を別途に募集し、彼らを偽造紙幣生産に従事させているのである。414連絡所には北朝鮮最高レベルの学者はもちろん、海外で教育を受けた600名以上の技術者が勤務している」

 安明進氏は以上のように記述しているが、朝鮮労働党作戦部414連絡所は登戸研究所第3科を模倣していると思われる。また、種々のスパイ道具を製作していた研究所第2科に相当するのは、324連絡所であることが判明している。1993年に韓国に亡命した人民軍軍事建設局の林永宣元中尉は、北朝鮮でビニール袋に水素を入れた気球を製造し、日本まで飛ばす実験を終えている、と証言している。

 北朝鮮の謀略工作を分析すると、登戸研究所や中野学校から強い影響を受けていることは明らかである。〝日帝の残滓〟を払拭したはずの北朝鮮において、工作員教育や謀略工作の分野だけは日本軍を継承しているのだ。

 前述したように、登戸研究所は、感染した牛はほぼ100%死亡するという牛疫ウイルスを兵器化し、気球で米本土を攻撃しようとしていた。

 北朝鮮も生物化学兵器を開発していることはすでに知られている。最近、日本を騒がせていた宮崎県の口蹄疫(ピコルナ・ウイルス)を兵器化している可能性もある。その場合、北朝鮮は旧日本軍のように気球に乗せる必要はない。日本人拉致や工作員上陸のため、北朝鮮はすでに工作船による「宮崎ルート」を開拓しているからである。工作船によってピコルナ・ウイルスが宮崎に運ばれ、口蹄疫騒動となったとしても、何ら不思議ではない。

 いずれにしても北朝鮮の謀略の対象は、韓国だけでないことを日本人は肝に銘じておくべきだろう。




陸軍中野学校 [DVD]
市川雷蔵 (出演), 小川真由美 (出演), 増村保造 (監督)


偽札製造実態迫る企画展、旧陸軍登戸研究所「5号棟」新資料や現物/川崎
2012年12月10日(月)6時30分配信 神奈川新聞



 現在の明治大学生田キャンパス(川崎市多摩区)敷地内にあった旧陸軍登戸研究所の一つ「5号棟」。戦時中、偽札を製造し謀略戦の核心部分を担ったとされる同棟について、実態に迫る企画展「キャンパスに残っていた偽札印刷工場」が同大平和教育登戸研究所資料館で開かれている。これまで、判然としなかった5号棟の役割。偽札の印刷工場だった可能性を示す新たな資料とともに、偽札の現物も展示される。

 同研究所には、全国から科学者や技術者が大勢動員され、生物化学兵器、風船爆弾とともに、偽札の製造が秘密裏に進められた。5号棟は、1939年前後に建設。約600平方メートルの平屋には6部屋あり、戦時中は中国経済の混乱を狙い約40億円分(当時)の偽札が刷られたとされる。

 戦後、5号棟は同大農学部の実験室・倉庫として使用された。老朽化などを受け、昨年2月下旬から3月下旬にかけて解体されたのを機に、同資料館は調査を開始した。

 基礎部分の断面を調べると、コンクリートの厚みが通常の建物の倍以上に当たる400~820ミリあることが判明。大学施設として改装を重ねた部屋の間取りも、当初はずっと広かったことが分かった。印刷機製造業者の資料からは、大型の機器が使われていたことも特定できた。

 数々の資料や調査から、大型で重量のある印刷機を設置することが可能な建物と推測できるという。偽札製造に携わった関係者の証言と照らし合わせ、これまで「倉庫または印刷工場」とされていた5号棟の役割が、「印刷工場」に絞られる可能性が高まった。

 会場には、解体前の5号棟の様子を撮影した写真や、新たに見つかった50年ごろの図面、改装工事の経過を紹介するパネルなどが並ぶ。12月22日までと、来年2月20日から企画展最終日の3月2日までの間、偽札の現物も展示される。

 午前10時から午後4時まで。入場無料。日~火曜(団体で事前予約の場合は日曜開館)、12月23日~1月8日休館。問い合わせは、同資料館電話044(934)7993。


・・・以上。



人間ナメんなよ!


でわっ!