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2013年9月5日木曜日

シリアを知りや

  
 という、下らないダジャレはさて措き、「IWJ」に、シリア関連の書籍が紹介されていたので、ワタシも便乗して紹介(拡散)させていただきます。

 ま、ワタシのような一介の浪人の戯言ではなく、元シリア大使という、「立派な肩書きの御仁」の書かれたものですから、みなさんも受け入れやすいことでしょう。



シリア アサド政権の40年史
国枝 昌樹 (著)

内容(「BOOK」データベースより)
二〇一一年春の民衆蜂起が武力抗争に発展、いまだに不安定な状態が続くシリア。帝国主義の時代でも、度々繰り返された中東戦争の時代でも、シリアは歴史に翻弄され続けてきた。四十年余りにわたってアサド家二代の独裁政権が続くこの国は、一体どこへ向かうのか。前大使としてこの国を知り尽くした著者が、「中東の活断層」シリアを解剖し、未来を読む。


 で、この本について詳しく書評しているのが、こちらのブログです。


緑の五月通信

2012-09-22
「反政府」なら「正義」なのか? 国枝昌樹「シリア アサド政権の40年史」を読む


 ブログにて引用されている本文を紹介すると・・・


 シリアでの動きのもう一つの特徴は、情報技術を駆使したメディア合戦ともいうべき激しい報道合戦である。シリア国営報道機関も積極的な報道活動を行うが、それ以上にシリア国外の報道機関の積極的な姿勢は目覚ましく、国際世論の形成に影響力を及ぼしてきた。そこでは、シリアの反体制グループが流す情報がその信憑性について検討されることなくほどんどそのまま報道されることが多い。(8ページ)



 そんな私が2011年春以来のシリア情勢を伝える報道を見ていて危うさに肝を冷やす思いをたびたび重ねている。反体制派の情報に偏った報道ぶり、明確に反体制側に立つアルジャジーラやアルアラビーヤなどの衛星放送局の報道の受け売り、加えて針小棒大、事実誤認の報道など。シリアの現状に関する国連機関の報告書についても、執筆者の意図に明確な偏りがある場合が認められる。(10ページ)



 年が明けて12年になると、AK-47は2100ドルまでつり上がり、民衆蜂起前には1個100ドルだった手榴弾が500ドルにまでなった。それでもシリアからやってきて闇市場で武器を購入する動きは途絶えない。彼ら(反体制側)は不自然なまでに資金が豊富である。(23ページ)



 ムスリム同胞団はイスラム教スンニー派の中でも原理主義に近い保守派によって組織される。イスラム教に拘泥することが少なく、統一、自由そして社会主義をスローガンに世俗主義を実践するバァス党とは相容れない。スンニー派有力者たちや大土地所有者たちはバァス党が勢力を拡大すると、バァス党の中で有力な異端的少数派のアラウィ派関係者と、スンニー派だが貧しい家庭の出身者たちの台頭に強い違和感を抱いた。そのような彼らはムスリム同胞団の支援に向かった。(32~33ページ)



 (アサド)政権が強硬姿勢を取るのには理由がある。民衆蜂起の裏に、バァス党結党以来の不倶戴天の敵であるムスリム同胞団の存在を嗅ぎ取ったのだ。(32ページ)



 (独シュピーゲルによると)イラクで米軍と戦ったイスラム主義過激派のレバノン人をインタビューし、その人物は11年夏以来、グループを作ってシリア領内に武装侵入してシリア政府軍と戦い、戦闘の現場にはパレスチナ人、リビア人、イエメン人、イラク人などもおり、シリア政権に対する戦いは確実に国際化してきているという発言を報道している(63ページ)



 イランのシーア派政権に対する湾岸諸国の支配層の猜疑心と拒否感は極めて強い。シリアはイランのシーア派政権と友好協力関係にある。シリア自身、特にハーフェズ・アサド大統領時代はシーア派に属するアラウィ派が要所を占めて主導した政権だった。(96ページ)



 湾岸諸国の大きな関心は、11年末に米軍が戦闘部隊をイラクから引き揚げた後、イラクのシーア派マーリキ政権がますますイランとの関係を強めていくことが予想されるなか、シリアをイランから何とか離反させてイランの影響力を削がなければならないという一点にある。(97ページ)


 全部で何ページの本なのかは知りませんが、これだけで大方の内容は想像がつくのでわ?ワタシも是非拝読したいのですが、いかんせんベトナムなもんで・・・。

 以前生意気にも、エジプトの・・・というか、アラブの若者の「知性」に期待する・・・と、いうようなことを書きましたが、


知性の勝負


・・・という考え方は、日本の若者にも当て嵌まりますし、いまの時代を生きる、全ての人に当て嵌まることです。

 で、「知性」は何処にあるのか?・・・というと、


自分で捜し求めるしかない


・・・と、いうのがワタシの考えです。即ち、口を開けて「知性」を待っていても、「他人の知性」を詰め込まれるのがオチであり、その結果が例の


原発安全神話


・・・を生んだとも言えるワケですから、現在も続く知識人だの、有識者だの、専門家だのという職業人からすれば、


イイお得意様


・・・でしなかない・・・ということです。

 極論を言えば、「知っている」とは仮象に過ぎず、常に「疑い」を持ち続ける姿勢こそが、「知」の本質である・・・と、言えるのかも知れません。


老子

道の道とすべきは、常の道に非ず。

名の名とすべきは、常の名に非ず。

名無きは天地の始め、名有るは万物の母。

故に常に無欲にしてその妙を観、常に有欲にしてその徼を観る。

この両者は同じきに出でて、而も名を異にす。

同じきをこれを玄と謂い、玄のまた玄は、衆妙の門なり。

(後略)


 そして、どうやら日本人には、そうした「知性」が先天的に備わっている?ワケですよ。


欧米から見た日本


カッテンディーケ 『長崎海軍伝習所の日々』
カッテンディーケ (1816~1866):オランダ海軍軍人

・・・ラウツ教授は知識欲に燃えているのが日本人の特徴であると言っているが、まことに至言である。・・・


 今の若者は、親の世代よりも収入が少なくなったと言われていますが、収入は所詮、「物価との相対関係」にあるので、デフレで物価が下がれば大して問題にはなりませんし、コストを下げるというのは、ある面では産業の進歩と言えます。しかし・・・


親の世代より「知性」が低下する


・・・と言うのは、いただけませんなw。


シリアに平和を!アラブに平和を!





人間ナメんなよ!


でわっ!
 

2013年8月3日土曜日

「悪意の情報」を見破る方法

  

「悪意の情報」を見破る方法
(ポピュラーサイエンス) [単行本]
シェリー・シーサラー (著) / 菊池誠 (監修) 今西康子 (翻訳)


知恵20ヶ条

1.まともな批判と単なるバッシングには、明確な違いがある。
2.意見が対立している。あるいは、科学的合意がなされている。・・・といった主張は、いずれも鵜呑みにしない。
3.「科学が自分の真価を認めようとしない。」・・・という、自称「革命家」には要注意。
4.バイアス(思い込み)はどこにでもある。
5.一次情報に立ち戻って、利害関係者たちが、それぞれどのような見方をしているかを調べる。
6.ふたつの選択肢のいずれかを選ぶしかないように見えても、ホントはそうでないことが多い。

(単純化の罠)
7.「リスク」と「メリット」が示されていても、それで全てとは限らない。
8. イノベーションの応用例のひとつひとつに、それぞれ独自の「リスク」と「メリット」がある。
9.大きな視野に立つと、選択肢を客観的に評価できる。

(過去、地域などの、適切な比較対象を持つ)
10. 当初案の欠点を指摘しただけで、代案が最善だという証明にはならない。
11.交絡因子は、原因を見きわめるのを難しくする。

(相関関係は因果関係ではない)
12.盲検化試験(先入観の排除)は、バイアス(思い込み)の影響を排除するのに有用である。
13.複数のタイプのデータを組み合わせると、因果関係を立証しやすくなる。
14.ある状況下で得られた研究結果は、他の状況に当てはまらないことが多い。
15.データの収集方法によって、統計数字が歪められることがある。
16.統計数字を、額面どおりに受け取るな。
17.研究結果が真っ二つに分かれている場合、真実はたいてい中間のどこかにある。
18.費用便益分析は、もっとも体系的な意識決定方法である。
19.自分の思考プロセスの弱点を熟知していれば、あなたを操作しようとする相手の策略にはまらずにすむ。
20.ひとつの問題を掘り下げていくと、いくつもの理解レベルが層をなしているのが明らかになる。






人間ナメんなよ!


でわっ!
 

2012年5月10日木曜日

幼年期は終わる・・・


 中学生の頃、SF(空想科学小説)にハマって、それ系統の本ばかり読んで時期がありました。で、SF小説目録のような小冊子の中に気になる小説があったのですが、当時は派手な仕掛けが登場するエンタメ性の高いSFが好みだったので、その小説のタイトルに興味は引かれたものの、内容の解説を読むと何やら難解そうな雰囲気だったので、もう少し後で読もうと後回しにしていました。

 で、そうこうする内にSF熱もいつしか冷め、日々の喧騒に埋もれ今日に至っているワケですが、それでも不思議とその小説の名前を忘れませんでした。それが・・・



幼年期の終り
(ハヤカワ文庫 SF (341))
アーサー・C・クラーク (著), 福島 正実 (翻訳)



です。

 で、たまたま某サイトで「幼年期の終わり」の大方のあらすじを知ったのですが、読まないでおいてヨカッタw。あの当時読んだとしても、ワタシには理解不可能だったと100%確信できます。


All in One_00
幼年期の終わり 要約


 
 で、物語の設定としては、人類以上の存在が地球に現れ、自らが無力だと悟った人類は、地球外知的生命体「オーバー・ロード」の管理の下に「ワン・ワールド」を築く。そして「ワン・ワールド」が安定した頃、人類の前にその姿を見せた「オーバー・ロード」の容姿は、古より伝えられた「悪魔」の姿そのものであった。

 しかし、宗教すら瓦解した「ワン・ワールド」の人類は「オーバー・ロード」を受け入れ、やがて全ての「子供たち」の人格に変化が顕われる。

 人類とは「精神の癌」を宿す種族であり、その破壊力は物理的世界を凌駕し、宇宙の隅々にまで感染する。そうなる事態を防ぐために「オーバー・ロード」の更に上の存在、「オーバー・マインド」から彼ら・・・「悪魔(オーバー・ロード)」は使わされて地球に来た。

 子供たちの人格の変容とは、「精神の癌」を取り除いた結果であり、恐らく・・・「精神の癌」=「エゴ」を取り除かれた子供たちはひとつの統合体となり、「オーバー・マインド」のいる星へと旅立って行く。後には空っぽになった地球が残され、役目を終え静かに終焉の時を迎える。以上。

 要約のさらに要約ですが、あらすじだけ読んでも物語は様々な示唆に富んでいます。

 先ず「ワン・ワールド」の出現です。現在でこそ陰謀論・・・いわゆる「イルミナティーが云々」で、「ワン・ワールド」という言葉が当たり前のようにネット上を行き交っていますが、当時(1970年代)そんなことを論ずる人は皆無で、妄想の類でしかありませんでした。


 そして宗教が瓦解するというのも「ワン・ワールド」の世界観であり、当時は口に出すのも憚られる「危険思想」だったんじゃないんですかね?だからこそSF(空想科学小説)の中でなら許された。・・・と。


 「子供たち」の人格(精神)の変容は、ヱヴァンゲリオンの中で繰り返し語られる「人類補完計画」そのもののようにも思えるワケです。


 で、物語の「核」となるのは、「人類の精神性」なのですが、つい最近もその手の邦画、「SPEC~天~」が封切られ興行成績もイイようで、そういった超常現象がワタシたちは大好きです。知的好奇心もあるのでしょうが、その他にも、今以上の力を欲する欲望が心のどこかにあるのも否めません。


 ではそういった「力(特殊能力)」を手に入れた時、人はどう振舞うのでしょか?「SPEC」のドラマ版の中では、
 

「SPEC(特殊能力)は欲望の産物だ!」


・・・と、言っていますが、「お金」を持つと使いたくなるのと同じで、「SPEC」を持てばそれを使いたくなるのは当然です。問題はその「使い方」にあり、それを誤ると「宇宙の崩壊」さえ招きかねないと、「オーバー・マインド」は「オーバー・ロード」を地球に遣わせたワケです。

 つまり「人類補完計画」によって、個人の人格とかエゴとかをひとつに統合してしまえば、混乱や争いや破壊は回避できる・・・・と。

 なんかコレって、陰謀論で言われている「ワン・ワールド構想」と非常に似たものを感じますなあ。逆にね?「そこまでしないと人類って救われない種族なの?」と、少し・・・いや、大いに悲しくもなります。

 感情の起伏・・・嬉しいとか悲しいとか、恋だとか愛だとか、諸々の感情は今以上の人類の進化の妨げであり、ひいては宇宙的な迷惑であると?


じゃあ、人類て何なのよ?


・・・と、アーサー・C・クラークに聞いてみたいものですが、既に故人です。はい。  

 欲望を形にすることで文明が、人類が進歩してきたのは事実です。しかし、同時に多くの悲しみをも生み出してきたのも、また事実です。「核爆弾」「核廃棄物」「自然破壊」・・・etc。

 このまま、人類が進歩するほどに負の面の被害も大きくなるのであれば、いずれ「宇宙を破壊」というような事態が起きたとしても、不思議じゃないかも知れません。「幼年期の終わり」は、それを警告したかったのか?・・・と。

 「戦争」「飢餓」「疫病」・・・人類が文明を築いてこのかた、ずっと変ることの無い問題です。それどころか一度問題が発生すれば、過去よりも更に大きな被害が発生しています。

 「人類補完計画」により、個性を失った「統合体」としての「種」の進化を選ぶのか?それともひとりひとりが、「理性により欲望をコントロールする」術を身に付け、他人とも、地球とも、宇宙とも、「共存」する道を選ぶのか?「幼年期の終わり」は、もう、すぐそこまで来ているように思えたりするワケです。



人間ナメんなよ!


でわっ!

2012年4月30日月曜日

ユダヤの告白 最終章

    
 えwと、まずは朗報から・・・。

 石原都知事が、「東京都が尖閣諸島を購入する!」と息巻いていた折も折り、ニュースの水面下では、国際水路機関(IHO)の総会において「日本海」という単独表記を「東海」と併記するかどうか?と言う議題が取り沙汰されていました。

 で、韓国の右翼?はインターネット上で嘆願を募り、アメリカに圧力を掛けようと試みていたのですが、どっこい日本も負けてません。心ある有志の方々のご尽力により、韓国には届かなかったものの、嘆願受理の規定数25000人を突破することができ、そのおかげ?かどうか分かりませんが、4月23日~27日の間、モナコで開かれた国際水路機関の総会では、


「日本海」単独表記


の海図が継続されることになりました。ちなみに次回の総会は2017年です。

 尖閣諸島がどうたら・・・という「煙幕」に惑わされず、現在の日本の状況を冷静に分析し、なお且つ行動を起こした有志が25000人以上いたことに、


日本もまだまだイケるだろう?


と、頼もしく思った次第です。はい。

 それでは「ユダヤの告白」、いよいよ最終章です。



ユダヤの告白 (1990年)
P・ゴールドスタイン J・スタインバーグ 共著
発行:エノク出版 版権:宇野正美


<転載>

最終章 アメリカ骨抜き作戦


イスラエル独立の立役者


 ベンジャミン・エプスタインと 「異端審問所」 のその他のメンバーが、第二次世界大戦終結時にADLの大がかりな機構改革に取り掛かったのは、単にユダヤ犯罪シンジケートに対するADLの貢献度を高めるためだけのことではなかった。

 この頃、ADLとアメリカのユダヤ社会は、ハガナやイルグンといったパレスチナのシオニスト地下組織を大々的に支援し始めた。当時、これら地下組織は英国からの独立とユダヤ人の祖国再建を勝ち取るべく戦っていた。

 支援活動は、少しは名の知られていたソンネボーン・インスティテュートなる組織の指揮の下で、密かに行われた。この組織の名称は、パレスチナで戦うユダヤ人を助けるため裕福なユダヤ人実業家を結集させたボルチモアの一ユダヤ人実業家の名に由来する。当然のことながら、この支援活動にはユダヤ犯罪シンジケートも大きな役割を果たした。シンジケートは、アメリカ、カナダ、メキシコ全域の主たる港湾全てにおける支援物資の密輸作戦に手を貸した。すでにADLと緊密な関係にあった大物たち、例えばランスキー、ダリッツ、パープル・ギャング団のメンバーから石油王になったマックス・フィッシャーといった人物たちも、ソンネボーン・インスティテュートの活動で大いに貢献した。


 こういったギャングの他にも、第二次世界大戦中にアメリカの諜報活動に従事した主だった人物が数多く支援活動に加わった。その中には、以前戦略事務局(OSS)の一員だったナヒューム・バーンスタインもいた。彼はニューヨーク州北部に秘密の訓練学校を創り、ハガナの地下戦闘員はそこで暗殺、爆破、サボタージュなどの技術訓練を受けた。後に、バーンスタインとケネス・ビアルキンは、エルサレム財団と呼ばれたローマ・カトリックのマルタの騎士に属するユダヤ人エリート集団の先頭に立った。

 第二次世界大戦中に米軍の中で最高の地位を極めたユダヤ人軍人の一人であり、かつADLとも長期にわたって親密な関係にあったジュリアス・クライン将軍は、米軍が保有する余剰武器を大量にパレスチナのユダヤ人地下組織へ違法に横流しした。クラインは自分の配下の者の中で、後のブナイ・ブリス会長でADLの頭目になったフィリップ・クラツニックと、ADL中西部地域担当のアボット・ローゼンの二人に、この時期以降期待を寄せるようになった。


アメリカに潜入するモサド


 イスラエルの独立が達成されるや、ユダヤ人ギャングや軍人、それに元諜報部員という組合わせからなるこの連中が、今後はイスラエルの情報機関モサドの設立に向けて中心的な働きをすることになった。独立後の最初の一年間、誕生して間もないモサドに訓練や助言を与えるために、クライン将軍は頻繁にイスラエルを訪れた。その際彼はしばしばマックス・フィッシャーを同行した。1948年のイスラエル独立時点でADLの再編を完了し組織の面倒を見ていたのは、ベン・エプスタインと彼の仲間だった。新たに強化されたADLは、米国内でのイスラエル情報活動の実質的拠点としての役割を果たした。

 ADLが外国が行う米国内でのスパイ活動に利用されたりするのは別に目新しいことではない。南北戦争以前において、ADLの母体ブナイ・ブリスは、イギリスがアメリカ合衆国に仕掛けた背信的な情報工作になくてはならない存在として、諜報活動、サボタージュ工作、テロ活動に係わっていた。ブナイ・ブリスは少なくとも一回はアブラハム・リンカーン暗殺計画に関係した。この陰謀は、合衆国憲法に対する全面的反逆を引き起こそうとするものだった。

 1985年にジョンサン・ジェイ・ポラードがスパイ行為を働いたかどで逮捕されるまで、イスラエルの対米諜報活動にADLが関与した極めて忌まわしい事件というのは無かったと言われている。しかし1960年代半ばには、ADLとブナイ・ブリスはすでに汚いスパイ工作に公然と関与していた。

 1960年代に諜報活動に関係していた大物工作員の中には、ADLやモサドの人間も何人かいたようで、後に 「ポラード事件」 との絡みで彼らの名前が人々の目を引いた。その中には 「元」 イスラエル政府職員のウリ・ラアナン、ADLとブナイ・ブリスの主席法律顧問であるアーノルド・フォルスター、ブナイ・ブリス会長でADL名誉副会長のフィリップ・クラツニック、ADL専務理事のベン・エプスタインといった人たちの名があった。

 1967年初頭に、1960年代のスパイ工作の詳細は白日の下に曝されることになった。その年になって、ブナイ・ブリスの元最高幹部が、ブナイ・ブリスの本部に創られた海外スパイ工作部隊への参加を拒否したという理由で解雇されたとして、ワシントンで一連の民事訴訟を起こしたからである。

 訴訟を起こした幹部、ソール・ジョフティーズは、ブナイ・ブリスの海外活動担当理事として20年間も事に当たってきた。コロンビア特別区連邦地区裁判所に 「ジョフティーズ対ラビ・ジェイ・カウフマン事件」(CA3271-67コロンビア特別区) という見出しで保存されている記録によると、1960年初め、ブナイ・ブリスとADLはアメリカ国内でモサドが広範囲な諜報活動を行えるようモサドに隠れ蓑を提供したという。ブナイ・ブリスが隠れ蓑になって創設されたこの特殊部隊の表向きの目的は、イスラエル国家の命運を左右するような情報を収集するために、ソ連や東欧、それにアラブ地域への旅行から戻ったアメリカのユダヤ人から報告聴取することを、モサドの工作員に許すというものだった。同部隊の設置の目的は、イスラエルの秘密工作員がアメリカの情報機関に潜入できるようにするためだった。


スパイ工作の最適拠点


 この工作によって、モサドはアメリカの外交政策をイスラエルに有利な方向へ誘導するために、合衆国政府に特定の傾向を有する情報を流し込むことができるようになった。

 このことからアメリカとは緊密な同盟関係にありながら、イスラエルとは敵対関係にある国が往々にして犠牲になった。そしてそのひとつの帰結として、ソ連が従来からアメリカとは政治的にも軍事的にも同盟関係にあったアラブ諸国のいくつかと関係を樹立することができた。つまりブナイ・ブリスとADLを通じて行われたイスラエルの諜報活動がもたらした最大のものは、ソ連がその外交・軍事政策目標達成に向かって大きく前進したことだった。

 ジョフティーズはその訴えの中でブナイ・ブリスとの争点を次のようにまとめている。

「クラツニックの指導の下、そしてラビ・カウフマンの承認の下で、ブナイ・ブリスは、慈善事業や宗教、教育活動とは別の事柄に手を出す国際的組織になってしまった。イスラエル政府の命令によって、国際政治に係わることの方が多くなった。」

 ジョフティーズは、1960年にブナイ・ブリスの本部内にモサドの秘密部隊が設置されたことを事のほか糾弾した。その諜報工作に当たった中心的諜報部員は、ニューヨーク、リヴァデールの有名なラビの未亡人だった。彼女の名はエイヴィス・シュルマンという。ブナイ・ブリスの特別計画に参加する以前、シュルマン夫人はイスラエルのモサドの工作員として採用されていた。彼女をコントロールしていた諜報部員はニューヨークにあるイスラエル領事館の職員、ウリ・ラアナンだった。当時、彼は情報部長をしていた。また当時のイスラエル総領事、エリーヴもこのスパイ作戦に関与していた。

 1960年の夏、シュルマン夫人はブナイ・ブリスの 「職員」 の形でその任務についた。彼女は、ラアナンを通じてあらゆる事柄をモサドに報告することになっていた。彼女に支払われる給料や経費は、イスラエル政府持ちで、ユダヤ機関を通じてブナイ・ブリスに設けられた基金から支払われる形が取られた。その機関とは、半官のイスラエル政府関係部局で、矛盾したことにイスラエル国外では慈善のための組織と見なされているものだった。

 ジョフティーズのブナイ・ブリスに対する一連の訴訟の結果、何千ページにも及ぶブナイ・ブリスやADLの公式書類、さらにイスラエル政府が出した公文書が裁判記録に残されることになった。モサドの秘密スパイ部隊設置に関して、エイヴィス・シュルマンがブナイ・ブリス関係者宛に出した一通の書簡の中で、モサドの諜報工作の本質が率直に次のように書かれている。

 「ユダヤ機関というのは、その中でもブナイ・ブリスは特にそうだが、『スパイ工作の拠点』 として極めて有用である」と。

 彼女はブナイ・ブリスが、仕事上の肩書き、個室、専用のレター用紙、電話等々を提供することを要望しているし、ラアナンもそれを要求している。さらに彼女は自分の諜報活動を隠すために、ブナイ・ブリス内に小委員会を設けることも要望している。その小委員会が彼女をその秘書に任命することで、彼女が目立たず、重要な活動ができることを助けてくれるよう依頼している。


ブナイ・ブリスをも食い荒らすモサド


 ブナイ・ブリス国連局のヘッドで、元ADLワシントン事務所長だったウィリアム・コレイ博士が、フィリップ・クラツニック宛に出した1960年9月1日付のブナイ・ブリスの公式書類は、コレイ、シュルマン、それにイスラエル情報部訴訟担当のウリ・ラアナンの間の話合いの結論の詳細に触れている。

 「昨日、私はエイヴィス・シュルマン(彼女は休暇から戻ったばかりだった)とウリ・ラアナンに会った。エイヴィスが考えていた工作方法の一部がすでに具体化されており、彼女のその考え方は、我々が会う前にすでにウリに報告されていた。彼女の考えを具体化する場合にある種の問題があった。中でも...すでに存在する事務所の中にその事務所、あるいはスペースを取るやり方の方が望ましいということがあった。彼女は郵便物を受け取ることができ、電話ができ、来訪者を出迎えることができるような自分の部屋が必要だという。...また、然るべき職についており、ずっとそれをやっているかのように見せるために、何らかの自分の身分を示すもの、つまり肩書が必要だとも言う。彼女をブナイ・ブリス国際評議会内の何かの委員会の幹事ということにでもしておこうか。この最後の点に関しては、一つ私にははっきりしない問題がある。彼女は国際評議会のために働くということにするのがあなたの意向だったのですか。(彼女は私の下で働くというふうに私は理解していました。彼女の対外的な肩書をどのようにするか、それに関するあなたの考え方を、私の方は正確には知らされておりませんでした)」

 こうした数多くの質問に対し、シュルマンは自分自身で同じく1960年のコレイ宛のメモの中で次のように答えている。

 「A.職業1.ソ連を訪ねた米国人とアメリカを訪ねたソ連人に関する調べられる限りの昔の情報を収集すること。a. この情報を関係部署に流すこと」

 彼女のメモは、さらに次のような必要性を説いている。

「ユダヤ機関や適当な個人、それに旅行代理店を使った全国規模のネットワークを作って、ソ連を訪問したユダヤ人旅行者からの聴取りを徹底させること。...ブナイ・ブリスをはじめとするユダヤ機関は、とりわけ有益である。大規模な組織網があり、国中に訓練され経験を積んだ人材が配置されているから」

 シュルマンは、さらにモサドのスパイ計画を進めるために、

 「いかなる場合でも必要な人材を探し出し、選抜し、配置させるために活動を中央に集中する必要があるとの声が寄せられている」

と述べている。彼女の要請は次の通りである。

 「1.任務の遂行に向けて活動を開始するには、その活動の基礎となるしかるべきものが私に与えられる必要がどうしてもある。一つは、名前と肩書。ブナイ・ブリス国際問題事務局傘下の小委員会。これは目的にふさわしい工作を進める上で理想的かつ最善のものとして考え出された名称である。この小委員会の長はクラツニック、そして幹事が私、ということになる。こうしておけば、比較的目立たずかつ重要な活動ができるというわけである」


イスラエル政府のみへの通報


 当初から、ラアナンをはじめイスラエル政府を代表する人々は、自分たちで特殊部隊を動かし、自分たちの工作員が集めた情報は、いかなることがあってもブナイ・ブリスの関係者には与えないことを、はっきりと明言していた。この点は、1960年11月2日付のクラツニック宛のコレイの覚書の中で強調されている。

 『先週の金曜日、私は、我々の友(ラアナンのこと)とモシュ・デクター、それにエイヴィスに会った。我々の友は、エイヴィスに与える資金について知りたがった。私は、この問題は11月末に開かれる国際評議会で議論されるべきものだと答えておいた。今のところは準備期間であり、私たちとしては、この工作がどうすれば成功するかを知りたいわけだし、かつまた成功することを望んでいるわけであると私は言った。彼らも、成功を心から望んでいるが、ブナイ・ブリスとの関係でこの計画が困難に直面する可能性があるのではないかということを口にしていた。もしそのようなことになれば、それに代わる手っ取り早いやり方として、この工作を進めるためのユダヤ人からなる独立の小委員会を創るべきだと彼らは語っていた』

 『彼女の肩書については、私が 「連絡担当」 ではどうかと提案したのに対して、彼らはこれに反対し、もっと威厳のある然るべき地位を示すもの、例えば 「顧問」 ではどうかと主張した。彼らはもう一度よく検討して、後で代案を出すと語った。また、彼らは彼女の名前を刷り込んだ専用のレター用紙を用意することを再度指摘した』

 『彼らはそれから、彼女に対する指示は自分たちだけが出し、彼女の活動はブナイ・ブリスとは無関係に進められ、その報告は彼らだけに行われること、ただ例外として週に一度ほどの割合で私に活動状況の報告を行うようにすること、を示唆して私をびっくりさせた(彼らと話し合っていて初めてのことだったが)。私はそれに反対して、彼女は組織の上で私たちの管轄下に入ると従来から考えていたし、ブナイ・ブリスに面倒が掛かるような活動があれば、我々はそれに歯止めをかけられる立場にあり、事実上、彼女は我々の承認を受ける状況にあると主張した』

 『事の性質上、そのようなことは不可能だと彼らは言った。彼女は彼らのために働いているのだし、彼ら以外から指示が出ることなどあり得ないという。また、工作の内容はごく僅かの人しか知らないようにしたいとも語った』


アメリカに巣食う吸血鬼


 このコレイのクラツニック宛文書が出る以前にも、ソール・ジョフティーズはブナイ・ブリスの会長に対し、イスラエルが申し入れてきている秘密工作は違法だということを何度も警告していた。ジョフティーズは外国の非合法なスパイ行為にブナイ・ブリスが巻き込まれることのないようクラツニックに申し入れてきたが、その最後の試みである1960年9月16日付の手紙の中で次のように書いている。

 「ただ一つのことをお願いしたい。私の言うことを拒否する前に、合衆国法第22第611-621条(1938年修正)および合衆国法第18第951条(1948年9月1日修正)に目を通してもらいたい」

 と。ここで挙げられている規定は、米国内で活動する外国機関の登録を定めたものである。

 モサドの関係者が進めているやり方に対するジョフティーズの警告などにも係わらず、クラツニックはモサドの申し入れ通りこの工作を進めた。これまでにこの計画が終了したということは耳にしていない。

 ブナイ・ブリスやADL、協力関係にあった在米のユダヤ人やシオニスト機関に支えられたモサドのスパイ工作は、シュルマンの秘密工作だけに留まるものではなかった。ADLの米国内における活動の責任者であるベン・エプスタイン自身が、ワシントンにおけるアラブ政府職員に関する情報をイスラエル政府に流すことを目的としたADLの諜報工作に関係していた。その情報は、米国と穏健アラブ諸国との関係を損なわせる目的でイスラエルがしばしば利用した。穏健アラブ諸国は、中東でのソ連の拡張主義に対抗すべくアメリカと同盟関係を結んでいたが、イスラエルとは敵対関係にあったからである。

 皮肉なことにソール・ジョフティーズ宛の1961年7月7日付の覚書の中で、エプスタインはこの計画に触れている。この覚書の一部を引用する。

 『ご承知の通り、ADLは長年にわたってアラブの動きと宣伝工作を調査する極めて重要な秘密情報活動に携わってきた。我々の利益からみて、反ユダヤおよび反イスラエルと言える宣伝工作に、アラブ人たちは何百万ドルも注ぎ込んでいるが、このプロパガンダ計画の拠点は主に国連、ニューヨーク、ワシントン、カイロである。その影響は世界的なもので、世界中の大部分の国において反ユダヤ、反イスラエルの動きを促している。我々の方も1948年以来、アラブ領事館、アラブの国連代表、アラブ情報センター、アラブ連盟事務所、アラブ学生機構の活動に関する情報収集活動を世界中で続けてきている。』

 『これらの活動に関する完全な資料を入手するには、大使館を根城にして政治努力やロビー活動、プロパガンダ活動に従事しているアラブの外交官たちの動きも追跡していかなければならない。この大使館の活動は、アラブ連盟とは別のものだし、アラブが有する中東のアメリカの友といったような組織との関係とも違うし、専門家を使った広報活動とも全く別のものである』

 『我々が収集した情報は、我々自身の工作遂行上必要不可欠であるばかりか、米国務省とイスラエル政府にとっても極めて価値のあるものである。情報源が我々であるということを先方に徹底させた上で、両国には全ての資料を提供してきている』

 『こうした活動は、その性格からして、反ユダヤ活動や、反イスラエルの計画および政策を暴く元になる大量の文書になった情報を我々にもたらしてきた。我々の情報によりアラブの計画が実行前に露見するといったことも数多くあった』


恩を仇で返す


 ソール・ジョフティーズがブナイ・ブリスを相手に一連の訴訟を提起している過程で、ベン・エプスタインは宣誓して証言することを求められた。宣誓の上で、1961年7月7日付の書簡の意味を尋ねられたが、エプスタインはその質問に答えることを何度も拒んだ。それは全米犯罪シンジケートの活動にメスを入れたケファウファー委員会で証言に立ったメイヤー・ランスキーを思い出させるものだった。

 実際、過去に一度、外国の政府の手先としてアメリカのユダヤ・エージェンシーが行っていたことを、アメリカの上院が調査したことがあった。

 1963年5月23日、大きな権限を持っていた上院外交委員会の委員長だったJ・ウィリアム・フルブライト上院議員が、米国内でのイスラエルのスパイ工作の真相を究明するために丸一日に及ぶ公聴会を開いた。

 上院のフルブライト委員会では、特にイスラエルのスパイが使っていた三つの隠れ蓑について調査が行われ真相が暴かれた。一つはアメリカ・ユダヤ人会議内に設けられたユダヤ少数民族調査(マイノリティーズ・リサーチ)プロジェクトだった。ブナイ・ブリス内のスパイ部隊同様、アメリカ・ユダヤ人会議内の工作部隊もニューヨークのイスラエル領事館によって裏で操られていた。実際、ユダヤ少数民族調査プロジェクトの責任者はモシュ・デクターで、モサドの工作員スパイ、エイヴィス・シュルマンと直接連絡をとりながら活動をしていた。その資金はイスラエル政府から出ており、その計画のために資金を実際出していたのが、誰あろうかのウリ・ラアナンだった。

 1961年7月7日付(ADLの反アラブ・スパイ網に関しベン・エプスタインがソール・ジョフティーズに宛てて書簡を出したまさしくその日)のユダヤ・エージェンシー(イスラエル政府の半公的機関)内部的覚書の一つによると、デクター計画に要する資金はイスラエル財務省から直接出ていたという。その覚書は、当時ユダヤ・エージェンシーの理事の地位にあったイシドール・ハムリンが記したもので、次のように書かれている。

 『ロシア調査プロジェクトに関する6月16日付信書を先にお送り申し上げましたが、さらに領事館からイスラエル財務省に発送致しました5千5百ドルの送金を依頼する内容の7月6日付の信書のコピーをお送り致します。以下の件、よろしく手配されたくお願い申し上げます。

1. 財務省に対し、5千5百ドルは合同基金に充当すべき旨連絡すること。

2. 領事館の手で我々に転送された5千5百ドルのうち、4千375ドルは、ロシア調査プロジェクトに対する我々の負担分としてアメリカ・ユダヤ人会議への毎月の送金に充当すること...』

 上院での審問において、ハムリンは合同基金の管理はニューヨークのイスラエル領事館における情報部の責任者が行っていることを告白した。1963年当時の情報部責任者はアルノンだった。アルノンはウリ・ラアナンとちょうど交代してしまっていた。さらに上院の調査で、ユダヤ・エージェンシーのロシア調査プロジェクトの責任者は、こともあろうにフィリップ・クラツニックであることが明らかにされた。当時、彼はブナイ・ブリスの会長でもあり、ブナイ・ブリス本部内におけるモサドの出先部隊の後ろ盾でもあった。


「私がモサドへの情報ソース」


 ジョフティーズの裁判の審議過程で手に入った文書によると、元ブナイ・ブリス会長のクラツニックは1966年に至るまで依然モサドのスパイ活動に深く係わっていた。その年の10月にロンドンで開かれたブナイ・ブリスの国際評議会の席上、ソ連ユダヤ人計画を遂行するために引続き10万ドルの特別資金を出すというクラツニックの提案が満場一致で採択された。

 ブナイ・ブリスの国際評議会の当時の議長だったモーリス・ワインスタインは、宣誓をした上で、10万ドルの資金が拠出されたことは認めたものの、ジョフティーズ側の弁護士から召喚状が出されていたブナイ・ブリスの帳簿上の資金源については、何一つ説明することができなかった。資金源を説明することができなかった理由は、その資金がイスラエルの財務省から裏金の形でブナイ・ブリスに渡された機密費であったからだ。これは米国法に甚だしく背くことであった。

 イスラエルのための諜報活動というのは、ADLやブナイ・ブリスの活動の中でも極めて重要なものだったことは、やはり長期にわたってADLに勤めていたアーノルド・フォルスターが最近出版した自伝の中でも強調されている。

 フォルスターはその自伝 『スクェア・ワン(はじめに)』 の中で、ナチ戦犯のアドルフ・アイヒマン誘拐事件が起こった頃の昔から、自分はモサド幹部の 「ダーティ」 ことラフィ・アイタンと親しい関係にあった事実を誇らし気に述べている。

 この事件が起こったのは1961年。クラツニック、エプスタインをはじめとするADLの最高幹部たちが、モサドのスパイ工作を隠蔽する隠れ蓑をつくり上げていたまさしくその時期だった。その上、フォルスターは、1987年に至るまでアイタンと接触を続けていたことを認めている。1987年と言えば、ジョナサン・ジェイ・ポラードを操っていた上級スパイとして、イスラエルのテロ工作の元責任者の名が公にされてから2年後である。

 詳細に証拠を追っていくと、フォルスターとアイタンの二人は、知り合って後しばらくしてからポラード・スパイ工作を支援するADLの役割の中で係わり合いを持つようになったと思われる。その時点で、フォルスターはADLの主席法律顧問になっていた。彼は実行が容易でなくかつ非合法性の極めて高い秘密工作を行うには理想的な地位にいた。

 実際、フォルスターはモサドのために働くことを自慢していて、『スクェア・ワン』 の中で次のように語っている。

 「イスラエルが行ったその他の工作の中でも、モサド - 海外工作を担当する地下組織を意味するヘブライ語の頭文字を取った名称 - は信頼できる各国政府やその他の接触先や情報源に対し優位に立つことをいつも求めてきた。私は、その情報源の一つだった


対米工作の極致、ポラード事件


 フォルスターがADLとイスラエル国防省内のアイタン率いる軍事諜報部隊 「LAKAM」 との間の主要な連絡係であったかどうかは別にして、ADLがポラード事件・スパイ事件に深く係わっていたことは事実である。

 この事件に関してはウリ・ラアナン博士もまた関係していた。

 今世紀最大のスパイ事件に関してポラードが半ば公式に語った本であるウルフ・ブリッツァ著 『嘘の領域』 によれば、彼をイスラエルによるスパイ劇に引きずり込んだのはウリ・ラアナンだという。ラアナンが形式的にはポラードを 「LAKAM」 の仕事のために採用したということもあり得る。ポラードがフレッチャー外交官学校の中でも難関の防衛研究課程を卒業してまもなく、メリーランド州スートランドにある合衆国海軍の諜報要員統轄局の最高機密を扱う部署に就くに当たってはラアナンが力添えを行ったのは間違いない。

 ラアナン自身は1973年以来、この作戦を指揮してきた。この作戦は、国際関係の分野を学んだ優秀な学生で、外交官あるいは情報関係の仕事につく気のある者だけを選んで、より高度の訓練を行うものである。防衛研究課程の卒業者の大半は毎年CIAや軍情報部、あるいは国務省に就職する。


 そのような卒業生の一人で、ジョナサン・ジェイ・ポラードの同級生で彼とも親しかったのが、マイラ・ランスキーである。

 ヴァージニア州の州刑事法廷で最近開かれた公判におけるランスキーの証言によると、彼女は1978年にフレッチャー・スクールを卒業した後CIAに就職し、そこで14ヵ月働いた後に、国防省でも機密を取り扱う部署であるネット・アセスメント調査分析局に移された。同局は、国防省のコンサルタントを外部から採用したり、ソ連をはじめとする敵性国の軍事力の全推定値を収集調整する業務を担当している。

 ポラード事件の捜査官の中には、ランスキー自身が共犯者だったのではないかと考えている者もいる。一部の報告書によると、ランスキーとポラードは共にザ・サード・ジェネレーション(「第三世代」)と称する内輪の勉強会のメンバーだったという。この勉強会は、ワシントンの国会議事堂近くの保守派のシンク・タンクであるヘリテージ財団の中で時々開かれていた。第三世代なる会には、情報関係者や議会やシンク・タンクのスタッフ・メンバーが参加しており、出席者の多くは高度の国防機密に接し得る立場にあった。そしてその大半は、熱烈なイスラエル支持者だった。


常に二重忠誠心を抱く人々


 会合の場所が、ヘリテージ財団だったというのも面白い取り合わせである。当初ビール王だったジョセフ・クアーズの資金で運営される小規模な保守派のシンク・タンクだったヘリテージ財団は、1978年に英国情報部の文字通りの侵略によって乗取られてしまった。レーガン政権時代には、この財団は終始イギリスの自由市場を標榜するフェビアン流政策を真の保守的見解と偽ってホワイト・ハウスの中に持ち込むことを終始狙っていた。

 1982年12月、マイラ・ランスキーは前途有望な公務員の地位を突然捨て、ADLの終身職員となり、ワシントンにあるADLの実情調査部の部長に就任した。彼女は国防省在籍中、ネット・アセスメント局のアンディ・マーシャル局長の下にいたが、1985年11月にポラードが逮捕されたのに続き、米政府捜査当局はマーシャルをポラードの共犯の容疑者リストの中に加えた。陰謀を共同して企てた容疑者グループは、「X-委員会」 の名称で呼ばれた。

 ポラード同様、マイラ・ランスキーも2、3年ラアナンの下で学んだことから深い影響を受けていた。ポラードがイスラエルのスパイの責任者として行動を開始する直前に、ランスキーがCIAや米国防省の機密を扱っていた部署からモサドと繋がっているADLに移った事実は、今なおその全貌が解明されていないポラード・スパイ事件の極めて興味深い一面である。

 ラアナンとの関係を、ポラードは 「フレッチャーにおける我がユダヤ体験」 と表現した。

 「イスラエルが国の内外で直面している真の政治問題を正しく理解できるよう、彼は私を知的に育て上げてくれた。・・・人間は戦闘と対話が同時にできるものであることを、彼は私に教えてくれた。また、平和とは別の意味で戦争の連続であることも教えてくれた。つまり、平和のために危険を冒さなければならないということではなく、自らの軍事的立場を改善するためには平和を巧妙に利用すべきであるということ― これは私が学んだ大いなる教訓だったように思う。― あの国家を存続させるために何が必要であるのかということを、ラアナンは政治的にも戦略的にもよりよく認識させてくれた。・・・これは極めて重要なことだった。ひたすら情緒的なあの国に対する私の思い入れとも言うべきものを、それがすっかり取り除いてくれた」

 要するに、ラアナンは他国(イスラエル)のために働くべく母国(アメリカ)に対しスパイ行為を働くよう、ポラードを仕向けたのである。そのことをポラードがよく知っていたかどうかは別にして、彼のスパイ行為で得をしたのは、イスラエルだけではなかった。彼が入手した膨大な量の情報は、彼を裏で操っていたイスラエルの人間を経由してソ連に流された。とりわけこの理由により、ワインバーガー国防長官は、ポラード事件によって被った被害はアメリカの国家安全保障の歴史上最大のものであったと述べた。

 「ダーティー」 ことラフィ・アイタンやアリエル・シャロンからなるイスラエル人のグループについてしばらく調査したことのある人なら、ポラードが盗んだ国防上の情報がLAKAMに流され、それからモスクワに提供されていたと耳にしても別に驚いたりはしないはずだ。

 イスラエルがレバノンに侵攻した1982年になって初めて、当時のシャロン国防相はアメリカがもはやユダヤ人国家の真の同盟者ではないと言い切った。そして今度アラブ隣国の一つにイスラエルが先制攻撃を仕掛けることを決定した場合、アメリカは敵国を支援する可能性もあると語った。そしてイスラエルの情報によると、1983年初めにシャロンは、ソ連赤軍の情報組織GRUの最高幹部と密かに会うようになったという。そしてその会談の何回かは、世界のスパイの十字路と呼ばれる便利な中立地点にある地中海のキプロス島で行われた。

 ソ連との間でシャロンがどういう合意に達したか、その詳細は不明であるが、彼らが何度か会合を重ねた後に起こった出来事を追っていくと何らかの結論を引き出すことができる。

 まず第一に、メナヘム・ベギン内閣の国防相に就任してからのシャロンは、長年の盟友 「ダーティー」 ラフィ・アイタンを政府内の枢要なポストに就けるために尽力した。その結果、欧州地区のモサド工作責任者だったアイタンは、まず首相直属対テロ・テロ担当室の室長に任命された。同室は、イスラエル政府の承認した暗殺やテロ工作の隠蔽を行う部署である。そして彼はイスラエル国防省内のハイテク・スパイ部隊、LAKAMの責任者にも就任した。この部隊は1956年のスエズ動乱直前に創設され、その後は長年にわたって、イスラエルの核兵器開発のために、科学分野の機密、装置、人材など必要なもの全てを入手することを主たる任務としていた。

 シャロンとアイタンの指揮の下で、LAKAMはアメリカの軍事力および戦争計画を探るべく諜報活動を開始した。世界のマスコミはイスラエルが対米諜報工作を行ったのはジョナサン・ジェイ・ポラードが初めてのことだとしきりに言い立てているが、軍情報関係者やCIAの専門家の一部は、その他にも大勢のイスラエル工作員が活動していたと考えている。彼らの一部は今も任務についており、アメリカの最高機密をLAKAMにどんどん送り込んでいる。その情報をアイタンはまた大量にモスクワに流していたわけである。


白アリが食い荒らしていた


 キャスター・ワインバーガー国防長官は、ポラードの有罪申し立て後、これに対し判決を言い渡す立場にある連邦判事宛に提出した48頁からなる機密扱いの口述書の中で、ポラードは働く相手を騙されたままで諜報工作網に組み込まれてしまい、結局のところロシア人のために働く羽目になってしまったと述べている。

 ワインバーガーのこの結論は、国防相とCIAが被害の程度を苦労して調べ上げた結果を受けて得られたものだった。この調査の中で、米軍の機密情報が大量にモスクワの手に入っていたことを示す証拠が数多く見つかった。その中には、アメリカの国防上取り返しのつかない損害を蒙ったものもあった。それにそのような情報がロシア人の手に渡るとすれば、それはLAKAMの仕業以外には考えられない証拠も数多く見つかった。

 1986年初めには、国防長官付主席法律顧問によって、ポラードおよびLAKAMのスパイ活動に協力したと思われる国防省とCIAの十指に余る有力幹部の名が記されたリストが作成された。そのリストの中に名を連ねているとされる人物の中に、マイラ・ランスキーが勤めていたネット・アセスメント局の局長、アンディ・マーシャルがいた。それに国防省の民間人最高顧問リチャード・パールの名もあった。彼はワシントン州選出の民主党上院議員で熱烈なシオニストのヘンリー・ジャクソンのスタッフであった際、イスラエルのためにスパイ行為を働いたとして逮捕されたことがある。さらに、アメリカの長期軍事戦略の立て直しを担当していたレーガン政権時代のブルー・リボン・パネルの議長を務めたアルバート・ウォールシュタッター博士の名もあった。法律執行連邦機関としては最古の歴史を有する機関の一つ、米国関税庁の幹部の一人によれば、ポラードが逮捕されて間もなく、政府はイスラエルが中堅どころの米国政府職員を文字通り何千人も自分たちの利益のために働かせていたとの結論に達したという。

 米国は、防諜活動で大きな失敗をしていた。ソ連は、巧妙な 「トロイの木馬」 のやり方を以前から進めていた。最も堕落し、最も熱心なイスラエル人を利用することで、ソ連は冷戦の最大の敵国に浸透して諜報活動をすることに成功した。


ポラード事件をも仕組んだADL


 最も堕落してかつ熱心な人たちが、例外なくADLと密接な関係があったというのは不思議でも何でもない。実際、ADLはポラード事件のほとんどすべての局面で顔を出している。ウリ・ラアナンは、長年にわたってADLとイスラエル秘密情報組織の間の連絡係をしていただけでなく、ポラードをLAKAMに引きずり込むのにも貢献した。ポラードの最初の黒幕で表向きポラードを徴募したとされるイスラエル空軍のアヴィエム・シェラ大佐は、ADLとは親しい関係にあったようである。

 複数の情報源によると、シェラの妻のイェフディット(別名「ルス」)は以前ADLのお抱え弁護士としてADL本部の民権局法務部で働いていた。もしこれが本当なら、シェラ夫人は 「ダーティー」 ことラフィ・アイタンの長年の親友でかつ 「情報源」 でもあったアーノルド・フォルスターの直属の部下として働いていたことになる。

 シェラとADLの繋がりがさらに重要な意味を持つのは、ジョナサン・ポラードが逮捕された直後、ADL全米委員会会長のケネス・ビアルキンが政府高官と話し合うために急きょイスラエルに飛んだことだ。テル・アヴィブを発つ直前だというのに、ビアルキンは個人的にシェラ大佐のために弁護士を手配した。その弁護士はレオナード・ガーメントといい、当時の彼の顧客の中にはヘンリー・キッシンジャーやエドウィン・ミース司法長官の名があった。

 さらにイスラエルで本拠を構えて仕事をしていたアメリカ人弁護士で、ポラードに日々の給料を与え、隠れ家や移動の費用などの面倒も見ていたハワード・カッツは、スターリング・ナショナル銀行の重役で、ポラード逮捕当時の米国司法副長官でもあったADLのアーノルド・バーンズの仕事上におけるパートナーであった。

 つまりポラードに絡むスパイ網が関係するところ、至る所にADLが顔を出すのである。


略語一覧表


AADC [Arab American Anti-Discrimination Committee]/アラブ系アメリカ人反差別委員会

ABT [American Bank and Trust]/アメリカン・バンク・アンド・トラスト

ADL [Anti-Defamation League]/ユダヤ名誉毀損防止連盟

AFL-CIO [American Federation of Labor-Congress of Industrial Organizations]/アメリカ労働総同盟産別会議

AIG [American International Group]/アメリカン・インターナショナル・グループ

AJC [American Jewish Committee]/米国ユダヤ委員会

CDL [Christian Defense League]/クリスチャン防衛同盟

CFR [Council of Foreign Relations]/外交問題評議会

CIA [Central Intelligence Agency]/米国中央情報局

CIB [Credit International Bank]/クレジット・インターナショナル・バンク

FBI [Federal Bureau of Investigation]/連邦捜査局

FRB [Federal Reserve Bank]/連邦準備銀行

GRU [Soviet military intelligence]/ソ連軍情報部

IBM [International Business Machine Corporation]/インターナショナル・ビジネス・マシーン・コーポレーション

ICI [Imperial Chemical Industries]/インペリアル・ケミカル・インダストリーズ

IDF [Israeli Defense Force]/イスラエル国防軍

IJA [Institute for Jewish Affairs]/ユダヤ人問題研究所

ILGWU [International Ladies Garment Workers Union]/国際婦人服労働組合

ILRRJ [International League for the Repatriation of Russian Jews]/ロシア系ユダヤ人帰還国際同盟

IMF [International Monetary Fund]/国際通貨基金

IOS [Investors Overseas Service]/インベスターズ・オーバーシーズ・サービス

IRS [Internal Revenue Service]/国税庁

ISIS [Israeli Secret Intelligence Service]/イスラエル秘密情報局

JDO [Jewish Defense Organization]/ユダヤ防衛機構

JDL [Jewish Defense League]/ユダヤ防衛連盟

KGB [Komitet Gosudarstvennoi Bezopasnosti]/ソ連国家保安委員会

KKK [Ku Klux Klan]/クー・クラックス・クラン

KKR [Klavis, Kohlberg and Roberts]/クラヴィス・コールバーグ・アンド・ロバーツ社

KPD [Communist Party of Germany]/ドイツ共産党

LBO [Leveraged Buy-Out]/借入資本による買収

LID [League for Industrial Democracy]/産業民主連盟

M&A [Mergers and Acquisitions]/企業合併・買収

NAACP [National Association for the Advancement of Colored People]/全米有色人種地位向上協会

NATO [North Atlantic Treaty Organization]/北大西洋条約機構

NCS [National Crime Syndicate]/全米犯罪シンジケート

NEC [National Executive Committee]/全米執行委員会

NIE [National Intelligence Estimates]/国家情報分析

NKVD [Major spy agent]/ソ連中枢のスパイ機関

NRA [National Reconstruction Administration]/全米復興庁

NSC [National Security Council]/国家安全保障会議

ONI [Office of Naval Intelligence]/海軍情報局

OPEC [Organization of Petroleum Exporting Countries]/石油輸出国機構

OSS [Office of Strategic Services]/戦略事務局

OWI [Office of War Information]/戦時情報局

PFIAB [President's Foreign Intelligence Advisory Board]/大統領付対外情報活動顧問委員会

PLA [Palestine Liberation Army]/パレスチナ解放軍

PLO [Palestinian Liberation Organizaion]/パレスチナ解放機構

SDI [Strategic Defense Initiative]/戦略防衛構想

SEC [Securities and Exchange Commission]/証券取引委員会

SOE [Special Operations Executive]/特殊工作部

TC [Trilateral Commission]/日米欧三極委員会

UAW [United Auto Workers]/全米自動車労組


最終章ここまで・・・

</転載>


 「ユダヤの告白」は、これにて終了。・・・チカレタBw。



人間ナメんなよ!


でわっ!

2012年4月28日土曜日

ユダヤの告白 第十一章

 
ユダヤの告白 (1990年)
P・ゴールドスタイン J・スタインバーグ 共著
発行:エノク出版 版権:宇野正美


<転載>

第十一章 テロの黒幕ADL


PLOの幹部暗殺事件


 ADLの実情調査部長で、英国情報部において訓練を受けた社会主義者でもあるシオニストのアーウィン・スウォールは、最近起こった少なくとも2件の極めて劇的な政治家暗殺事件に決定的な役割を果たしていたと考えられている。

  実情調査部責任者の手になるADLの内部記録の一つによれば、1985年4月にPLO穏健派の指導者イッサム・サルタウィがポルトガルのリスボンで暗殺された時、スウォールはその目撃者であったという。サルタウィは、リスボンの高級ホテルのロビーを歩いていたところをパレスチナの対立派が送り込んだと思われる刺客に射殺されたのだとされた。サルタウィは、社会主義者インターナショナルの年次会議に出席するためにリスボンへ来ていた。彼は世界の社会主義者たちに向かって、PLOのヤッサー・アラファト議長への支持と、イスラエル軍に占領されている地域に独立国を創りたいというパレスチナ人の願いに対する支援を切々と訴えた事があった。

 サルタウィが射殺された時、アーウィン・スウォールはそのホテルのロビーで座っていた。彼も同じ社会主義者インターナショナルの会議に出席するためリスボンへ来ていた。イスラエル政府に近い複数の情報源によると、ADLおよびイスラエルのモサドの代理人であるスウォールの役割は、社会主義者インターナショナルを常にイスラエル側につけておき、決してアラブ人やパレスチナ人を擁護する側に回らせないようにすることだったという。この彼の任務からみれば、「人権」 や 「民族自決」 の立場から自らの主義主張を雄弁に説く穏健派パレスチナ人の存在は、イスラエルという国を血の海に引きずり込んでやると叫ぶ狂信的テロリストよりも、大きな脅威だった。

 サルタウィの死は、PLOのアラファト議長にとっても、また社会主義者の支持を取り付けようとした彼らの狙いにとっても大きな痛手であった。しかしこの事件から程なくしてヨルダン川西岸やガザ地区で暴動が起こり、近代的装備を誇るイスラエル軍隊が抵抗する武器を持たない若者に立ち向かった時、世界の世論や社会主義者インターナショナルの支持は目に見えてイスラエルから離れていく事になった。


 スウォールがサルタウィの暗殺に関係があったことを示す証拠は何一つ挙がってはいない。だが、その一方でそれから1年も経たないうちに、イスラエルとADLの利益を脅かした社会主義者インターナショナルのもう一人の人物の暗殺事件の隠蔽工作に、スウォールが個人的に関与していたという驚くべき証拠が明らかになった。


続いてスウェーデン首相、パルメ暗殺


 1986年2月28日、スウェーデンのオロフ・パルメ首相は、夫人や小人数の警護員と一緒に通りを歩いているところを暗殺された。1963年の米国大統領ジョン・F・ケネディ暗殺事件以来の大規模な捜査にも係わらず、今日に至るまで犯人は捕まっていない。

 パルメの暗殺から何日かたって、アーウィン・スウォールとADLは、世界のマスコミを動員してパルメ殺害の罪を、アメリカの政治家でエコノミストでもあるリンドン・ラルーシュに押し付けようとした。ADLが十年にも渡って憎悪の対象とするラルーシュは、スウェーデンにも支部のあるヨーロッパ労働党と呼ばれる世界的政治運動の代表だった。パルメ暗殺の2、3年前、ラルーシュは、自分の提出した戦略弾道ミサイル防衛計画案がレーガン大統領によって大幅に採用された事から、ソ連の怒りを買ったことがあった。彼の提案した計画は、戦略防衛構想(SDI)、別名 「スター・ウォーズ構想」 の名で広く知られるようになった。レーガン大統領がSDI計画を発表した1983年3月23日から何週間も経たないうちに、ソ連政府の出版物はADLのパンフレットや記者発表の内容そのままの誹謗中傷の文句を並べ立てて、ラルーシュを好戦主義者だと攻撃を始めた。

 ソ連政府上層部の広報担当者たちは、ラルーシュがパルメ殺害の背後にいたとのADLの主張を支持した。その中にはソ連米国カナダ研究所長で科学アカデミー会員のゲオルギ・アルバトフや、当時のスウェーデン駐在ソ連大使で、KGBにあって長年の間専ら裏面での宣伝工作に従事してきたボリス・パンキン中将等もその中にいた。

 今になってみれば、パルメ暗殺の背後にラルーシュやヨーロッパ労働党が関係していたと攻撃したスウォールやソ連高官は間違いなく、その主張が全くのデタラメで言い掛かりであることを知りながらこうした行動を取っていた。パルメ殺害から3年の後、ストックホルムの主要日刊紙スヴェンスカ・ダグブラデット紙の中で、スウェーデン情報部の上級諜報部員は、スウェーデンに居た少なくとも一人のKGBスパイがパルメ暗殺の数時間前に、同国の社会主義の指導者が殺害されることを予知していたという事実を、確たる証拠を揃えて明らかにした。スウェーデン国家警察SAPOの中の秘密情報部の手で、そのスパイの自宅には盗聴マイクが仕掛けられていた。KGB職員がパルメ暗殺を事前に知っていた事は、彼とその妻の会話を録音したテープにより知る事ができる。そのテープは直ちに、最初の段階でSAPOに盗聴装置を提供した米国CIAへ渡された。

 パルメ暗殺の隠蔽工作の肝心な部分は、言い掛かりであると知りながらラルーシュに罪をなすりつけようとした事にある。政治的な理由で大物を殺害する場合は常に、殺害の計画と同時に、隠蔽工作をも計画しておかなければならない。

 隠蔽工作の担当者は、誰が実際に殺害を実行したか、その詳細を必ずしも知っているわけではないが、暗殺者と隠蔽工作の担当者を採用するのは、共に全体を仕切る同一人物である。スウォールとADL、それにソ連のKGB。これがスウェーデンの国家最高首脳で社会主義者インターナショナルの指導者、オロフ・パルメ暗殺の隠蔽の鍵を握っている。この点は、文字になって公にされているし、疑問の余地のない事実である。


パルメ殺害の動機


 だが、依然はっきりしないのは、パルメ殺害の動機である。

 時間の経過と供に、さらにはイラン・コントラ事件の鍵の解明が進むにつれて、1984年11月のインディラ・ガンジー、インド首相の暗殺事件以来起こった重要な政治家の暗殺の動機が判明してきた。一方この事から、米国内外で勃発した数多くの他のテロ事件においてADLが果たした役割につき多くの事柄が明らかになってきた。

 オロフ・パルメは殺された当時、社会主義者インターナショナル委員会、つまりパルメ委員会の議長だった。この委員会は、第三世界の紛争の調停をしたり、内戦や地域紛争、民族戦争や混乱によって破壊された地域の非武装化を進めたりする事をその目的としていた。1985年の終わり頃には、パルメは6年も続いていたイラン・イラク戦争の終結に向けて努力していた。

 殺害される何ヵ月か前、パルメはスウェーデンの武器商人、カール・エリッヒ・シュミットの事務所の手入れをスウェーデンの警察当局に命じた。それは交戦国への武器販売を禁じた国際協定に違反し、イランのホメイニ陣営へ武器を提供した容疑によるものだった。シュミットの家宅捜査により入手した書類を調査するうちに、パルメはそのスウェーデン人がイスラエルのモサドおよびレーガン・ブッシュ政権内のプロジェクト・デモクラシーの組織と緊密な関係を結びながら仕事をしていた事を知った。さらに、東ドイツの悪名高い秘密警察シュタージも、シュミットによるスウェーデン製爆薬のイランへの密輸に加担していた事が分かった。その一方で東ドイツは当時、ソ連製の武器をニカラグアのコントラに大量に送り込むのにも協力していた。


 ペルシャ湾や中米で東西が表向きには対立しながら、地域戦争を醸成するために裏では馴れ合いの関係にあるという皮肉な事実を、パルメは暴露しようとしていた。だが、彼は逆に暗殺されてしまった。パルメの口封じは、後にイラン・コントラ事件で明るみに出る事になる秘密を隠蔽するために、最初の段階で用いられた過激な手の一つだった。彼の口を封じる事は、アメリカの政府高官、ソ連のKGB、そしてその仲間である東ドイツのシュタージのいずれにとっても願ってもない事柄だった。その時点では、ADLもイラン・コントラ工作の中に完全に組み込まれていた。ユダヤ人によるコントラ援助を進めるために、ADLはサンディニスタ政権が 「反ユダヤ」 政策を取っているなどという馬鹿ばかしい宣伝工作を行っていた。またオリバー・ノースのグループ支援をユダヤ人社会にどう働きかけるかという問題につき、ホワイト・ハウスで説明するといったことまでを行った。

 パルメ暗殺に関する悪質な宣伝工作を進める上で、スウォールやADL幹部が果たした役割は、同じADLがイラン・コントラのために行った手口と完全に軸を一にしている。

 アーウィン・スウォールはルイジアナ州ニューオーリンズで行ったインタビューの中で、「シュミット事件」 が最初に発覚した時彼はスウェーデンにおり、リンドン・ラルーシュに対し手を打つ件につきスウェーデンの親シオニスト社会主義者たちとすでに話合いに入っていて、パルメ暗殺から何時間も経たないうちに、彼自らが隠蔽工作に乗り出した事を明らかにしている。

 オロフ・パルメの場合も、おそらくイッサム・サルタウィの場合でも、スウォールとADLの役割は、暗殺後のプロパガンダ活動に限られていた。それは虚偽の証拠のねつ造によって本当の暗殺者を逃亡させ、真の動機を隠蔽しようとするものだった。

 その他の場合には、米国の内外を問わず、ADLは直接テロそのものに関係していた。ADLは特に、犯罪組織と悪質な情報組織、それに名うてのテロ組織の接点の役目を果たしてきた。


自作自演のカネ集め


 ADLがテロリストによる暗殺計画に関与していた事が公にされた最初のかつ悪質この上ない事件は、1968年に起こったものである。それはスウォールがADLで汚いトリックを受け持つ実情調査部長に就任して一年後のことだった。そしてこの事件がきっかけとなり、ADLは南北戦争後密かに手を結んでいたKKKと再び深い関係を持つことになった。

 1968年6月30日、ミシシッピー州メリディアンのKKKのメンバー2人が、地元のADL職員メイヤー・ダヴィドソンの自宅に爆弾を仕掛けようとしたところを、警察の待ち伏せに会い、その一人、地元の学校教師キャシー・アイスワースは射殺された。彼女の相棒、トーマス・A・テランツⅢ世は、警察とFBI捜査官によって70回以上撃たれたものの、奇跡的に生き延びた。その後の地元警察による捜査の内容は、ロサンゼルス・タイムズによって事細かく伝えられたが、それによると爆弾を仕掛ける計画も待ち伏せも、すべてはADLによってお膳立てされていたものである事とが分かった。ADLは、FBIと地元警察の情報関係者の少なくとも1人と連携プレーをしていた。事件を演出するために、ADLはそのおとり要員となった地元のKKKの指導者2人に少なくとも6万9千ドルの現金を手渡していた。その2人のうちの1人は、ADLに買収された時、3人の人権運動家を殺害した罪ですでに有罪になっている人物だった。

 アルトン・ウェイン・ロバーツは、1964年にミシシッピー州フィラデルフィアで、グッドマン、チェイニー、シュウェーナーの人権活動家3名の暗殺に加わった罪で、他の6人のKKKメンバー共々有罪の判決を受けていた。「ダヴィドソン爆殺」 が企てられた時、ロバーツは上訴の結果を待つべく保釈金を積んで釈放されていた。彼は終身刑を求刑されていた。

 アルトン・ウェイン・ロバーツと彼の兄弟レイモンド・ロバーツには、人種問題が原因で当時起こったと思われるテロ事件のうち、少なくとも10件以上について主犯としての容疑がかかっている。このうち2件については、標的がユダヤ人だった。1967年9月18日、ミシシッピー州ジャクソンのシナゴーグが爆破され、同年11月21日には、同じジャクソン市の地元のラビの家が爆破された。そしてアインズウォースとタランツがメイヤー・ダヴィドソン宅を襲撃する一ヵ月前の1968年5月27日には、ミシシッピー州メリディアンのシナゴーグが爆弾によって大被害を受けた。

 これら一連の爆破にADLが資金を出していたという証拠は公にはされていないが、1968年6月の第一週までに、ロバーツ兄弟がADLから現金を受け取り、KKKメンバーから2人を送ってメイヤー・ダヴィドソンの家を爆破するよう指令を受けていたことは、警察の調書でも新聞の報道でもはっきりしている。計画ではKKKのメンバー2人が地元のADLの指導者の家を爆破しようとしているところを警察とFBIが逮捕するということになっていた。そしてその後、この事件を大々的に報道し、人種差別の高まりや反ユダヤ主義を大きく取り上げることにより、地元のユダヤ人社会や南部全体のリベラル派の人たちからのADLへの献金を募るというものだった。そうすれば同情した人々から多額のカネが入ってくるという寸法だった。これはまさしく教科書通りの取り込み詐欺の手口で、ADLお得意のやり口だった。


目的のためには手段を選ばず


 FBIにとっても、起こった事件を都合よく報道されるのは決して悪い話ではない。またロバーツ兄弟にしても、カネが懐に入るし、刑務所入りを逃れるのに地元や連邦当局の協力を得られるのだからこれは悪い話ではない。

 警察の調書によると、ADLの中でこの件を指揮したのは、アドレフ・ボトニック、別名サム・ボトニックだった。彼はADLのルイジアナ支部ニューオーリンズ地区の責任者だった。この支部はミシシッピーにおけるADLの活動も管轄していた。

 ボトニックは、ニューオーリンズの元FBI特殊捜査官故ガイ・バニスターとは長年の友人関係にあった。バニスターはまた、海軍情報部にも関係しており、ジョン・F・ケネディ大統領暗殺の陰謀に加わった中心人物の1人だったとの疑いもかけられている。ケネディ暗殺の中心人物とされた2人、犯人とされたリー・ハーヴィー・オズワルドと彼が心を許した友人のデイヴィッド・フェクーは、大統領暗殺のちょうど2、3ヵ月前からニューオーリンズにあるバニスターの事務所にしばしば出入りしていたことが目撃されている。ケネディ暗殺の真相を究明するニューオーリンズ大陪審に出頭する前日にバニスターが死亡するまで、ボトニックは彼の事務所に絶えず顔を見せていたようである。

 1968年の初め、サム・ボトニックはミシシッピー州メリディアンを訪ねた。その目的は地元のFBI特別捜査官フランク・ワッツおよびメリディアン警察の刑事ルーク・スカーボローと密かに会合を行うことにあった。その会合の席上、ボトニックはロバーツ兄弟にADLの資金6万9千ドルを渡すという名も知れぬ 「仲介人」 に対し、1万ドルを支払うことに合意したと言われる。ロバーツ兄弟は情報提供者となり、かつADLやFBI、それに地元警察のための工作員となって、KKKと警察の間に起こる銃撃戦の演出に手を貸すことになった。

 ADL、FBI、地元刑事、2人のKKKテロリストの間の合意内容は、有名な捜査担当記者のジャック・ネルソンによる1970年2月13日付 『ロサンゼルス・タイムズ』 紙の一面記事の中で詳細が明らかにされている。ネルソンの記事は、メリディアン警察のスカーボロー刑事が記した1968年6月10日付報告書を裏付けとしている。

 その警察の書類の一部は次のようになっている。

 「私は、仲介人に会って、工作の準備が整った事を告げた。彼はカネについて尋ねたので、我々はすでにある人物 [スカーボローは他のところでこの人物はボトニックだと述べている] に会ったところ、この人物はカネの方は大丈夫だと言っていたと彼に教えてやった。彼は、それからウェイン [アルトン・ウェイン・ロバーツのこと] を訪ね、我々が事を始める準備が整った事を告げた。ウェインは店へ行ってレイモンド [ロバーツのこと] にその事を言いに行くと仲介人に語った。レイモンドは、次の仕事をメリディアンで実行するには3日前後かかると我々に告げた」

 「次の仕事が始まったら、我々は3ヵ所の異なる場所に張り込まなければならないと彼 [レイモンド] は語った。また一つの本物があるとするといつも、それに代わるものが二つ存在するものだとも言った」

 『ロサンゼルス・タイムズ』 のネルソンの記事によると、その翌日サム・ボトニックは、ニューオーリンズからメリディアンに運ばれる最初の分2万5千ドルを20ドル紙幣で用意した。その現金はFBIの要員に渡され、その日の遅くにその要員はロバーツ兄弟に会った。

 6月20日、ロバーツ兄弟はFBIとADL側に返事を送り、ダヴィドソン宅に爆弾を仕掛けさせるためKKKの中から2名、ジョー・ダニー・ホーキンスとトーマス・テランツⅢ世を選んだことを伝えた。攻撃予定日は6月30日。

 6月29日の夜、アルトン・ウェイン・ロバーツは2人のKKKメンバーに最後の爆破命令を伝えた。最後の瞬間になって、キャシー・アイスワースがホーキンスの代わりに任命された。ホーキンスは計画から降りた。

 6月30日に日付が変わって間もなく、テランツとアイスワースはダヴィドソンの家まで車を走らせた。アイスワースが車の運転席で待っている間、ピストルで武装したテランツが家の方に爆弾を運んだ。その瞬間、12人のメリディアンの警察官と少なくとも10人のFBI捜査官がKKKのメンバー2人に向かって銃撃を開始した。最初に銃を撃ったのが警官であったのかどうかは今日に至るまで議論があるが、テロリスト志願者の2人がまんまと罠にはまり、警官とFBIの待ち伏せによって文字通り抹殺されたというのは事実である。


KKKとも組むADL


 自らの指導者の1人に対するテロを演出するのにADLがどういう役割を果たしたか、その詳細を 『ロサンゼルス・タイムズ』 が明らかにした事でADL内にはかなりの混乱が生じたものの、爆破・待ち伏せ作戦そのものは万事計画通りに成功した。マスコミが人々を震え上がらせるような話を書き立てた結果、南部全体でADLの資金集めに弾みがついた。

 アルトン・ウェイン・ロバーツは、ミシシッピー州フィラデルフィアにおける民権活動家3人の殺害の件につき、驚くほど短い禁固刑に処せられるだけで済んだ。彼は7年の禁固刑の判決を受けたが、3年で釈放された。彼とその兄弟のレイモンド・ロバーツは、FBIの目撃者連邦保護措置を受けられることになり、多額の給与を与えられている。複数の情報源によると、この2人はその後20年間はADLの実情調査部のために働くおとり要員として活動し続けたという。


 ADLがミシシッピー州メリディアンをにおいて人種差別主義者の殺し屋2人を雇ったのは、決して特異なことでも異例のことでもない。例えば1980年代半ばには、ADLの南東地域民権部長チャールズ・ウィッテンシュタインは、アトランティック警察署が行っていた秘密工作計画をそっくり自分たちが乗っ取ってしまうことを提案した。表向き、地元警察が深刻な予算削減に悩んでいるのを見かねてという理由で、ADLはその計画に要する費用の全てを負担すると申し出た。

 ロバーツ兄弟に見られるように、ADLはKKK子飼いのメンバーを雇うというだけに留まらず、入獄しなければならないという恐怖心や経済的な困窮という事情をうまく利用したりすることがある。また、恐喝して要員を引張って来るという昔ながらの手口を使うこともある。


人種差別反対はただの表看板


 他から人を捜して来るというやり方の他、ADLは自ら訓練した工作員を使うこともしばしばある。彼らの多くはユダヤ人で、KKKやそれに類する組織の中に密かにおとり要員として潜入している。

 ジェームズ・ローゼンバーグ(別名ジミー・ミッチェルおよびジミー・アンダーソン)は、そうしたADL工作員の一人である。彼は長年にわたってKKKやクリスチャン防衛同盟(CDL)といった白人の人種差別団体の幹部だった。目撃者の証言によると、1970年にローゼンバーグは、ニュージャージー州トレントンのKKKのメンバーを説得して、全米有色人種地位向上協会(NAACP)の地元本部を爆破させるところまで話を詰めた事があった。もし爆破が実行されていたら、ニュージャージー州の州都は、人種暴動の場を化していたことだろう。

 ニューヨーク州知事、州兵、それにイスラエル政府の間の特別の計らいで、ローゼンバーグは12名のニューヨーク出身者と共に、イスラエル国防軍の軍事訓練を6ヶ月間受けた。ローゼンバーグに関して詳しい何人かの捜査官によると、レーガン政権時代に、ローゼンバーグは、イスラエルのモサドが雇った傭兵の1人として、グアテマラやエルサルバドルに何度か送り込まれた。

 ある時、ローゼンバーグとADLの差し金で極右組織に潜入していたもう1人の男が、2人でミッド・タウンのアパートの屋上から自動拳銃で下を通る歩行者を狙っていたところを警察に逮捕され、世間を騒がせたことがあった。

 ADLの介入により、その事件の真相は隠蔽され、ローゼンバーグとその共犯者は、共に罪に問われることはなく事が済んだ。


悪魔からの知恵か


 ADLから密かに送り込まれた別のおとりでローゼンバーグやスウォールと長年関係のある人物が、同様の事件を起こした罪でニューヨークで裁判を待っている。その人物の名はモルデカイ・レヴィ。1989年8月10日、彼はニューヨーク市内のグリニッチ・ヴィレッジで実際に通りの群衆に向けて銃を発射、たまたまそこにいた人の足に弾が命中した。ニューヨーク市警テロ対策班の手で付近一帯には非常線が張られた。何年もの間レヴィと一緒に活動してきたFBI捜査官が、最終的にそのユダヤ人秘密工作員に対し武器を捨て警察に投降するように説得した。レヴィは殺人未遂を含む一連の重罪を犯したかどで起訴された。

 その10年前、レヴィはこれとは違った形のテロ襲撃を試みて悪名を馳せたことがあった。1979年2月16日、彼は独立ホールでKKKとアメリカ・ナチ党の集会を開く許可をもらうために、ジェームズ・ガットマンなる偽名を使ってペンシルバニア州フィラデルフィアの米国公園管理局事務所に申請を行った。独立ホールは合衆国の独立宣言が調印された国定記念物である。


 集会の許可申請書によると、ガットマンは 「白色人種による白人の大同団結を誇示し、世界の黒人やユダヤ人どもは腰抜けだということを誇示するための白人パワーの集会」 を演出するつもりだった。

 集会に使用される道具や装置一式を記載する申請書の別の欄に、彼は 「鉤十字章、旗、ナチの制服、KKKの小道具一式、十字架、『ヒトラーは正義なり- コミュニストのユダヤ人をガス室に送れ』 と書いた鉤十字のプラカード」 と書き入れた。申請書の至るところに 「ガットマン」 は自分のことをフランク・コリンズ率いるネオナチ・グループでシカゴに本部を置くアメリカ国民社会党の 『コーディネーターのトップ』 だと書いた。フィラデルフィアでこの集会が開かれる数年前、自分自身がユダヤ人の両親のもとで生まれたコリンズは、イリノイ州スコッキーというシカゴ郊外のユダヤ人が大勢住む地区ですっかり評判となったナチの行進を演出した。当時、その行進はADLかFBI、あるいはその双方が後援者になってやらせているものだとそれを調べた人たちの多くは考えた。

 フィラデルフィアで、計画中の独立ホールでの集会への参加をKKKのフィラデルフィア支部やニュージャージー支部に呼びかけたときには、レヴィは 「ジェームズ・フランク」 なる名前を使った。当時、彼の仲間のADL工作員ジェームズ・ローゼンバーグはその近くのニュージャージー州トレントンで活躍しており、彼はガットマンの集会に参加するよう地元の白人グループを誘った。

 レヴィが米国公園管理局から集会許可を得て24時間も経たないうちに、ナチ・KKK阻止連合なる特別委員会が急遽フィラデルフィア地域に結成された。このグループは、暴力をもって反対デモを行うというものだった。この連合の旗振り役は誰あろう、モルデカイ・レヴィ自身だった。

 彼は本名を使ってテロ集団であるユダヤ防衛連盟(JDL)のフィラデルフィア本部から指揮を行い、この地域の左翼や戦闘的ユダヤ組織にことごとく接触した。


ユダヤ組織の公然たるテロ


 この連合の打ち合わせの一つに出席した 『フィラデルフィア・ジャーナル』 紙の記者、ビル・テイラーによると、グループは間違いなく流血沙汰を引き起こす準備をしていたという。

 「ヤームルカや皮のジャンパーを着たいかつい顔つきの若者のグループが、静かにかつ熱心に銃について議論していた。357口径では大き過ぎまいか、38口径は役に立つだろうか、と」 と彼は書いている。

 1979年3月16日に発表された同じ記事の中で、JDLニューヨーク支部の保安担当の責任者の発言が引用されている。

 「我々はニューヨーク から千人から2千人連れて行く。我々の側にはなぜあの連中(ナチ)が1人残らず札付きかという6百万の理由がある」

 KKK支持者と反KKKの間であわや再び流血事件の勃発かと思われたが、「ナチ」 の集会の直前に地元の新聞記者がガットマンの正体を知るに及んで、衝突は回避された。

 フィラデルフィアの新聞は 「ナチ集会、仕掛人の正体はユダヤ人」 と大見出しで書き立て、「ナチ集会許可、背後でJDLが仕組んだか?」 と問いかけた。

 マスコミの伝えるところでは、米国公園管理局は集会許可を取り消したという。ADLにとっては惜しかったとはいえ、この団体は懲りることなく、人種対立を煽動する同様の企てを他の機会に何度でも試みようとした。

 ADLの手先のモルデカイ・レヴィや、JDLのもっと強硬なテロリストたちは、穏健なパレスチナ系米国人や、イスラエルやソ連が戦時中のナチ戦犯と非難している東欧出身の米国人を対象にした全面テロ攻勢を米国内で仕掛けようとした。

 1985年秋と言えば、PLO幹部のイッサム・サルタウィの暗殺がアーウィン・スウォールによって目撃されてから何ヵ月もたたない頃だが、その年の秋には血生ぐさいテロの嵐が吹き、その一つの事件では、爆風によって2人が死亡、数人が負傷した。その事件はFBIのウィリアム・ウェブスター長官がいうところの 「ユダヤ地下組織」 の仕業によるものだった。

 一連のテロ事件では、モルデカイ・レヴィが中心的な支援の役回りを果たしていた。


ユダヤ防衛連盟(JDL)のテロ続発


 1985年8月15日、ニュージャージー州パターソンのツチェリム・スーブゾコフの自宅が爆破された。彼はロシアのサーカシア地方からアメリカに移民した人物で、中東では米国情報部のために働いていた。この事件は朝の4時に自分の車が燃えているとの隣人からの電話で起こされた彼が、玄関のドアを開けた瞬間に爆発するように仕組まれたなかなか凝ったものだった。スーブゾコフは足を吹き飛ばされた。それから3週間後に近くの病院で息を引き取った。

 スーブゾコフはADLと近い関係にある 『ニューヨーク・タイムズ』 紙の記者に、対戦中はナチだったとして非難されていた。この記者、ハワード・ブラムが非難の根拠としたのは、長年ADLの協力者であったエリザベス・ホルツマン議員が最初に手を入れ、その後ソ連がねつ造したものであることが判明した文書だった。

 スーブゾコフはブラムと 『ニューヨーク・タイムズ』 紙を名誉毀損で訴えた。この辺のところは一冊の本になって大勢の人々に読まれている。彼が勝訴し、示談で決着したときから、彼に対する攻撃や言い掛かりがエスカレートした。これらはユダヤの地下組織からのものだった。

 爆弾テロが実行されるちょうど2、3日前、モルデカイ・レヴィがニュージャージー州パサイク近くのシナゴーグで話をして、スーブゾコフを危険な 「ナチ」 と言って攻撃した。レヴィは今は新設のユダヤ武闘組織、ユダヤ防衛機構(JDO)の代表だと自らを称しているが、スーブゾコフが爆弾で吹き飛ばされた後にレヴィは声明を発表して、それを快挙と 「賞賛」 した。

 スーブゾコフへの爆弾襲撃が行われた翌日の1985年8月16日、マサチューセッツ州ボストンの警察官が、アラブ系アメリカ人反差別委員会(AADC)のボストン事務所の外に置かれた同様の仕掛けパイプ爆弾を処理しようとして重傷を負った。爆弾が破裂した後、JDLを代表するという人物から事件は自分が起こしたとする電話があった。ツチェリム・スーブゾコフが息を引き取った8月7日、ニューヨーク、ロング・アイランドにあるエルマーズ・スプロギスの玄関に同じ種類の爆弾が置かれていた。スーブゾコフ同様、スプロギスも戦犯としてJDLの攻撃の対象になっていた。爆発によってスプロギスが負傷することはなかったが、彼の車が燃えているのを知らせるために彼の家の呼鈴を鳴らした何の関係もない通りがかりの人が重傷を負った。再度、JDLは警察とマスコミに犯行声明の電話をかけてきた。そしてこの時もやはり、犯行の何週間か前にADLのおとり要員モルデカイ・レヴィがニューヨーク、オールド・ウェストベリーのシナゴーグで記者会見をして、スプロギスに対し 「ユダヤの正義」 を思い知らせてやると約束していた。


第十一章ここまで

</転載>

 
 残すところ、あと一章です・・・。



人間ナメんなよ!


でわっ!