2010年10月15日金曜日

鹿男PART4

中臣氏


1.姓(かばね)は連(むらじ)。

2.物部氏とともに仏教受容問題で蘇我氏と対立した。

3.中臣鎌足は645年の大化の改新で活躍し、669年の死に臨んで、藤原姓を賜った。

4.以後鎌足の子孫は藤原氏を名乗ったが、本系は依然として中臣を称し、・・・


つまり、神八井耳命(カンヤイミミノミコト)を祖とする多臣系中臣氏が本系ということでしょうか?なれば、オボ系(国津系)が本系だと?そして連(むらじ)とは、
『日本書紀』などにおいては、連姓の多くは天皇家以外の神の子孫としている。・・・と、あることから、天皇家同様に神格を持った集団であったことが伺えます。

 これは「或る集団」の中の、リーダー的なグループが天皇家であり、その他のグループが「連」であると解釈することができ、であればこそ、「連(むらじ)」=「連・なる(つらなる)」という姓(かばね)であることが納得できます。

 中臣氏の本系がオボで、しかも「連」であるという事は、天皇家も同様にオボ(国津系)である事になります。そこで、
天皇家欠史八代に照らし合わせると・・・


四代 懿徳天皇
- 大日本彦耜友天皇(おおやまとひこすきとものすめらみこと)

七代 孝霊天皇
- 大日本根子彦太瓊天皇(おおやまとねこひこふとにのすめらみこと)

八代 孝元天皇
- 大日本根子彦国牽天皇(おおやまとねこひこくにくるのすめらみこと)



「大(おお)」にオボ(多・大・太・意富・於保)の形跡が推察されます。はい。

 ところが、当初天皇家と同格扱い(神の子孫)であったとされた「連」が、その地位を大きく下げる事態が発生します。それは・・・40代天皇、
天武天皇(大海人皇子)が684年に制定した

八色の姓(やくさのかばね)


です。その中で「連」は、上から7番目(下から2番目)まで、一挙にその地位を貶めるのです。この事は大規模な「権力の入れ替え」があった様に思われます。旧来の勢力が駆逐され、新興勢力が政権を奪ったと見るのが自然です。で、具体的に言うと672年に・・・

壬申の乱


が起き、それまでの「朝廷」が潰されてしまったのではないかと。早い話が、国津系(オボ)が朝廷から駆逐されてしまった。・・・と。

 663年の「白村江の戦い」が敗戦に終わり、百済からの難民が大挙して日本に流れ込んで来た。時の天皇、天智天皇は親百済であったので難民を手厚く保護し、居留地もあてがったのでしょう。しかし、元からの地方豪族にすれば、朝廷の命とはいえ、自分たちが開拓した土地にいきなり余所者が住み付くのですから、憤懣やるかたないのは容易に想像がつきます。その不満が起爆剤になって、大海人皇子(天武天皇)は壬申の乱=朝廷に対するクーデターを成し遂げられたのでしょう。

 藤原鎌足に戻ります。中臣鎌子・・・後の藤原鎌足も中大兄皇子(天智天皇)と共に645年、

乙巳の変


を起こし、仏教派(新興勢力)の蘇我氏を宮中にて斬殺に及びます。中臣氏は古式の祭礼を司る家柄だったので、仏教派を敵視していたのは想像に難くありません。
  
 で、蘇我氏を討ちその後再び旧勢力が力を盛り返したのか?鹿男(藤原氏)の運命や如何に・・・


でわっ!