2010年10月12日火曜日

公共という概念 2

 電車内などで携帯電話を使用する側(恐らく若い世代が多いのでしょうが・・・)の心理を推察してみるに、まず第一に、行動を起こす前に、他人や周囲に配慮する。・・・と云うステップが欠如している様に思うのです。

 当人の感覚では電車内も、自宅も、同一世界に在り、従って「誰に遠慮が要るものか。」となるワケです。これはワタシのような小心者からすればスゴイですわ。内と外の区別無く、この世界の全てが自分の為の空間だと思っているんだとしたら。そうなると当然、他人の視線なんて気にするワケも無く、例えばコンビ二の前とかで女の子が、パンツ丸見えでしゃがみ込んでいるのに遭遇したりもするワケです。はい。

 また、普段は(ひとりでいる時は)お行儀いいのに、友だちから電話が架かってきた瞬間、友だちとの会話に没頭してしまい周りが見えなくなる・・・。もしくは、「周囲を遮断モード」に切り替わってしまうのかも知れませんが、それだけ友だちとの会話が重要なんでしょう。

 ワタシにしても、思春期には「この世界の何よりも、友だちが大切だ。」と思っていた時期がありますから(勿論今でも友だちは大切です)、今の若い世代も似たようなモンだとは思うのですが、今にして思えばあの、「友だち第一主義」の裏には孤独に対する恐怖もあったように思えるのです。そしてそれは、突き詰めれば自分のエゴであった・・・。

 その「恐怖」から逃れる為に、携帯電話の無かったワタシたちの世代は、盗んだバイクで走り出したり(ウソ)、本を読んだりして「恐怖」とか「不安」を押さえ込もうと足掻いたものですが、結果として「友だち同士」だけでは得られない、より「広い視野」を持ち得たんで良かったんじゃないかと?

 その点、いつでもどこでも?携帯で友だちとコミュニケーションが取れる今の若者は、幸せなのかも知れません。が、読書などで見識を広めるチャンスが減っているのも事実でしょう。

 テレビ、新聞、雑誌などで見識を広めるのもアリでしょうが、昨今のマスコミの劣化具合を見るに、見識を広めるどころか、逆に見識を狭めてしまうのでは?と危惧する次第です。はい。

 ま、それはそれとして・・・。過去ずっと、人間自体が恐怖と共に生きて来たのも事実です。「飢えの恐怖」「災害の恐怖」「病の恐怖」等など・・・。そして現在、一応はそれらの恐怖から解放された、「文化的生活」を送っています。しかし逆に、便利になったことで失ったモノがあるのに、気が付かないと云う事はないでしょうか?

 携帯電話の話に戻りますが、若者が思春期の「孤独と云う恐怖」から逃れんが為に、「友だち世界に埋没」し周囲が見えなくなる状況とは、周囲の人間の「存在を無視」してるのと同じですよね?周囲の人間の「尊厳を軽く見ている」・・・のと同じ事ですよね?

 
世の中が「便利」になる事で人間の尊厳が軽くなるなんて、正しい進歩の在り方なんでしょうか?


 「公共という概念」に照らし合わせれば、「公共の場」とは、決して人間性を軽んずる場では無いはずです(少なくともワタシの中では)。逆に、ひとりひとりの尊厳を尊重するからこそ、「お互いに我慢しましょうや。」と云う合意がそこにあるように思うのです。そしてこの「合意」は、都市部に限らず日本中で効力を発揮すると思うのです。

 で、その合意が崩れる場合とは、「力による支配」が生じた時じゃないか?と。そこで話は戻るのですが、その、「力による支配」=「合意破り」に、多くの人は不快感を抱くのではないでしょうか?と・・・。


でわっ!