2012年7月23日月曜日

恥の文化


 日本の文化は「恥の文化」だなどと言われますが、その裏返しは「誇り(プライド)」だと思う次第です。人は誰しもその強弱の差はあっても、何らかの「プライド」を持っています。では、人はなぜプライドを持つのか?それはプライドが、自分と他人とを区別するものであり、自我の一部?全部?であるからです。

 したがって、「誇り」を傷つけられる=「恥」をかかされるとは、自分の存在を否定されるに等しく、特に「誇り」を重んじる武家社会においては、「恥」をかかされた場合には、「切腹」という極端な行動に現れたのでしょう。そして、そういった「武士道」を美化?する日本人意識が、現在においても引き継がれでいるワケです。

 「武士道」を美化するに吝かではありません。「欧米から見た日本」にも記録されるように、幕府による治世において、「武士」は華美を戒め質素を旨として暮らしていました。武士も庶民も、その生活レベルに大差は無く、物質的な豊かさは無いにしろ、一応、「公平な社会」が築かれていたからです。

 然るに、現代の武士ともいえる「役人」はどうなのか?現在のような政治、社会状況の中で、形骸化した「武士道」ばかりが美化され、「武士」=「お上」に従えというのも、「そりゃ、ご無体!」...な、要求です。「武士道」と「治世」が一体化していた江戸幕府と違い、現在の政府、内閣は、己の不徳を省みることも無く、一方的に権力を行使するのみです。

 ま、そのような状況の下でも...というか、そういう状況であるからこそ、「本来の武士道」に対する郷愁がいつまでも失われないのでしょう。

 で、本題は「武士道」ではなく、「恥」についてなので話を戻しますが、「恥」と「プライド」と「自己存在理由」は、ほぼ一体と見なせます。「プライド」が高いということは「恥」に対して敏感であり、「恥」を感じることで「自己存在理由」に不安を覚えるのです。

 この状況を端的に言い表しているのが、過去何度か引用した、伊丹万作氏の「戦争責任者の問題」の中の、次の一節です。


 「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。


 何故?「だまされていた」といって平気でいられるのか?その理由が「プライド」にあるからです。

 日本国民は必ず戦争に勝つと「洗脳」され、それを信じ、「誇り」をもって家族を戦場に送り出した人たち、そして戦場に向かった若者たち...。社会のすべてが戦争中心に回っていたあの時代、「自己存在理由」とは日本が戦争に勝つことであり、それがひとりひとりの「誇り」であり、戦争に負けるなど「恥」以外の何ものでもなく、


生きて捕囚の辱めを受けず。


という精神状態にあったワケです。

 しかし、日本が敗戦し連合国軍が進駐して来ると、「軍部にだまされていた」として、「一億玉砕」ならぬ「一億豹変」するワケですが、これも、敗戦という「恥」を受け入れたくないが故の心理と言えます。「恥」を受け入れてしまえば「プライド」が傷つき、「プライド」が傷つけば「自己存在理由」が揺らぎます。

 「自己存在理由」が揺らぐということは、「生きる意欲を失う」ことの原因になり、してみれば、戦場にて「プライド」を賭けて戦っていた兵士が日本の敗戦を知り、戦地から帰還後に「抜け殻」のようになってしまったり、「自棄」になってしまうのも頷けます。

 つまり、日本人全体が「だまされていた」ということにして、「恥」を受け入れることを巧妙に避けたのです。これがワタシなりの見解です。
 
 ただ、それを非難する気も、その資格もワタシにはありません。「恥」を「だまされていた」とすり替え、「自己存在理由」を失わなかったおかげで、「生きる意欲」を失わずに、日本が戦後復興を遂げられたのも歴史的事実なのです。
 
 そしていま全く同じ状況が、「原発」を巡って起きています。「経済発展」という「誇り」を賭けて「原発」を推進しようとする政府、内閣は、まるで当時の「軍部」のようです。

 福島での「原発事故」により原発が危険であること気付いた多くの人たちは、「だまされていた」...として、反原発を訴えていますが、そもそも、


なぜだまされたのか?


まで掘り下げて検証しないと、また、「別のうそにだまされる」だけなのです。

 先の戦争の総括を日本人は怠りましたが、今回の「原発事故」は、「日本人の意識」を総括するのに絶好の機会のように思えます。





 安富センセが終わりのほうで「歴史の勉強」が云々...と、歯切れが悪い物言いをしてますので、ワタシの口からハッキリ言わせて貰えば、今回の原発事故にしろ、現在の政府のありさまにしろ、


責任はワタシたちにある!


ということなのです。


ワタシたちが愚かだった!


ということなのです。

 その「恥」を受け入れなければ、今後も何度でも「同じ過ち」を繰り返し、「だまされていた」と言って「イケシャーシャー」としているだけなのです。己の「小さなプライド」にしがみ付いているだけなのです。


死ぬ気で事にあたる。


という例えがありますが、人が死ぬ気で何かをする時、「プライド」なんて消し飛んでしまいます。「必死さ」が足りないのは、何処かに「プライド」が残っているからで、そのような状態では、「プライド」が邪魔をして、「最後の壁」を突き崩すことはできないでしょう。
 
 然しながら先に述べたように、「プライド」=「自己存在理由」=「生きる意欲」であるので、他人が「プライド」を捨てろと言うのは、「生きる意欲」を捨てろと言うのにも等しく、とても強要できる類の問題ではありません。ま、その辺が、安富センセは優しいから、


勉強しなさい。


と、やんわりと言う他はなかったのでしょう。(たぶん)

 で、勉強するとどうなるのか?というと、「知識」が増すことによって「自己存在理由」が更新されます。「自己存在理由」が更新されると「プライド」の質も変わります。当然、「プライド」の質が変われば「恥」の質も変わります。

 したがって、現在「恥」だと思っていることが、実は取るに足らない些細な事だと気付き、些細な恥や些細なプライドから開放されれば、世界が「ガラッ!」と違う姿に見えてくるはずです。


旧世界は死んだ!


と、誰もが実感できるようになります。そのためにも、


恥をかくことを恐れない


という心構えが必要とされます。

 ジッサイのところ、多くの知識人、エリート、言論界、学会、メディアに携わる人たちは、「恥」をかくことを極端に恐れます。自分が長年にわたって努力して積み上げた成果とか、既得の名誉、地位を守るために、「自己存在理由」を守るために、すべてを「自分たちの知識世界の内に矮小化」して処理しようとします。「アップデート」が出来ないのです。「アップデート」を受け入れてしまえば、権威とやらに裏付けられた知識は、その時点で「チャラ」になってしまうからです。

 しかし、「権威」に頼らない知識は、いくらでも「アップデート」が可能であり、且つ、安富センセが言うところの「複雑系(バタフライエフェクト)」の世界においては、「アップデート」の繰り返しが、よりダイナミックな世界に適していると言えます。

 ま、人は基本、他人からとやかく言われるのを嫌います。それは、自分が自分であろうとする「自己存在理由」からすれば当然なワケで、であるならば、他人からとやかく言われもそれを跳ね除ける、「ゆるぎない自分」を確立するのもまた、「理に適う」ワケですよね?

 そのために、「勉強したほうがよろしいんじゃないですか?」と、安富センセはやんわりと言っているワケで、まあ、多摩の田舎者のワタシから見れば、「京都の人間は上品だねwww。」と、ひとしきり感心した次第です。

 で、「恥をかくことを恐れない」という点に関して言えば、権威に保護されたおエラい方々よりも、ワタシたちのように「無学の者」の方が、これからいくらでも新しい知識を「アップデート」可能なワケで、いずれ、「旧世界」の固定化された知識人よりも多くの知識を持つようになり、その時ワタシたちは「十全の存在」たりえると、「新世界」の展望を述べたワケです。 




人間ナメんなよ!


でわっ!