2011年1月5日水曜日

因習と陰習

 NHKの「プロフェッショナル」という番組や、日テレの「世界一受けたい授業」などで、その存在を広く知られた脳生理学者の茂木健一郎氏ですが、氏のブロク「クリオア日記」の最新記事の終わりにこんな一節が・・・


<転載>

2011/01/05
プリンシプルの人

<抜粋>

「小沢一郎という人の真価は、日本の因習を離れ、国際的文脈の中にあって初めて明らかになるのではないかと思う。小沢さんが表舞台に登場することを、楽しみに待ちたい。」

</抜粋></転載>


 で、ワタシにとしては「小沢一郎」という「政治家」はどうでもよくて・・・と、言うと語弊がありますので補足しますが、重要なのは、小沢氏が掲げる「理念・信念」なワケです。

 「小沢一郎」という人間だっていずれは死にます。人間なのですから当然です。ひょっとしたら、明日には病気、不慮の事故で亡くなるかも知れません。その時、「小沢一郎」という個人に全てを託していたら、どうなりますか?小沢氏が掲げる民主主義も一緒に消えて、無くなってしまうのですか?

もうダメだmmm!・・・orz

・・・と、絶望に打ちひしがれるだけですか?それじゃあ亡くなった小沢氏(勿論現在はご健在です)も、浮かばれないでしょmmm。
英雄の危険性について

 ワタシの目からですよ?現在の小沢氏を取り巻く状況を見るに、小沢氏の政治理念に賛同するのはいいのですが、では、その政治理念を共有できているのか?・・・という疑問があるワケです。他人を持ち上げるだけなら簡単です。

 政治理念が共有できていれば、何も小沢氏ひとりに民主主義の砦になって貰う必要は無いワケです。みんなが、庶民一人々が、民主主義の砦になればいいのです。これは小沢氏を支持する他の政治家についても同じ事が言えます。
菅首相側50人、小沢氏側120人が出席、元日の新年会対決は小沢氏に軍配

 小沢氏を支持するのであれば、小沢氏と同じ行動が取れるはずです。小沢氏の・・・

政治理念が共有できていれば!

それも無く、ただ勢いに乗って集まっただけの集団であれば烏合の衆に過ぎません。情勢が変われば、サッサと態度を変えることでしょう。

 クドイようですが、重要なのは小沢氏では無く、小沢氏が掲げる理念・・・「民主主義」の在り様なのです。そして、「民主主義」の名の如く、主役は庶民であることを自覚しなければなりません。
「我が為し得る程度を。」

 そして彼は微笑(ほほえ)みながら考えた。

「そうだ……それでもやはり……十分だ。」


 我が成し得る程度・・・自分の能力でできる事。それはワタシの様な凡人にはたかが知れている事ですが、同じ庶民の中にも、ワタシより遥かに優れた能力を有した人が必ず居ます。もしその人が、ワタシと同じ理念を持って行動したら、ワタシより遥かに多くの成果をあげるでしょう。ワタシが言うところの「面の力」とは、そういった事です。

 小沢氏にしてもパーフェクトな人間ではありません。力が及ばない部分も必ず有ります。そこを攻められれば形勢は不利になるでしょう。その際には、小沢氏と理念を共有する政治家なり、ワタシたち庶民が補助すればいいのです。理念の実現に向けて。

 では、庶民の理念・・・民主主義の根源は何処にあるのか?と問えば、それは生活です。

 簡単に言うと、過去、日本には身分差別がありました。それは日本建国に纏わる歴史的な経緯から生まれたものです。日本が「多民族国家」として産声をあげたことは、今日多くの人の知るところとなり、「単一民族」という従来の教育が、支配層によって作られた幻想に過ぎない事が広く知られるようになりました。
Y染色体の亜型分化



 従来の固定された知識が入れ替えられたとしても、何ができると言うのか?日々の生活は相変わらず続いていくではないか。・・・と、思うのがワタシを含む庶民の感情ですが、その生活が、従来は身分差別などで不利益、不公平を被っていた生活が、「みんなが平等なんだよ・・・と知るだけでも、世界が違って見えるはずです。それが民主主義の社会なのです。

 そして変化は、その変化の元があっての変化です。その意味で昔からの習慣=因習を理解し、それを乗り越えなければ真の変化は達成できないでしょう。因習を離れる事が、正しい道筋とは思えません。過去から連なる因習のドロドロの部分にシッカリ目を向けないと、因習は陰習となり、いつまでも社会の陰の部分に存在し続ける事でしょう。
「千と千尋の神隠し」に出てくる「カオナシ」の様に。


でわっ!