2011年1月4日火曜日

レッドオーシャンを往け


新年明けましておめでとうございます。

 新年早々、「レッドオーシャン」を往けとは無粋かもしれませんが、かの一休禅師も・・・

正月は、あの世の旅への一里塚。

などと申しておりますmmm。

 生きるものは全て死ぬ。是必定。今・・・この瞬間すらも、死に臨んで思い出せば、きっと幻の如く思えるのでしょうな。そんな事をフト考えた、この正月でした。

 どんな瞬間も過ぎてしまえば形は残らず、ただ記憶として頭の中に存在するのみ。そうなると、現実にどれほどの意味があるのか?目の前の現実とは、数秒後にはタダの記憶に変わるだけの存在なのに・・・。

正月は、あの世の旅への一里塚。

 一休禅師は、「全ては過ぎ行く」ことを理解してらしたんですねmmm。命が消え行く過程の一里塚としての正月。謂わばそれは、物差し、定規の目盛の様なものだと。

 一年という時間の物差し。その上を私たちは、死に向かって毎日歩み続けているワケですが、そうなると、歩むという行為が人生そのものかも知れません。死ぬまで終わることの無い歩みが、「人生」なのだと。

 この年末年始、虎舞竜・・・もとい、トラブルに巻き込まれ若干疲れているのですが、これも仕方の無い事と、頭を切り替えている最中です。この世界は、自分を中心に廻っているワケではありませんから・・・。

 話が飛躍しますが、物体の分子の活動が活発になると個体から液体になり、さらに活発になれば気体になりますよね?その際に発生するのは「熱」ですよね?

 社会も同じように思えるのですよ。人間が活発に活動すればそこに「熱気」が生まれ、社会も熱くなっていく。そして、個体>液体>気体と状態が変化するにつれて、分子の自由度が高くなっていくように、「熱い社会」においては、人間の活動の自由度も上がるのではないか?・・・と。

 それは言葉を換えれば、社会の中の「競争状態」が高いレベルに移行するとも考えられます。「競争社会」と聞くと悪いイメージが思い浮かびますが、スポーツの世界はれっきとした「競争社会」です。「競争社会」は否定されるべきだと、スポーツを否定する人はいませんよね?

 人はひとりひとり、自分の能力(SPEC)を備えています。それ自体は何ら批難されるものではありません。逆に、その能力を最大限に発揮することが、人生を充実したものに変えてくれるのではないでしょうか?

 しかしながら、稀有な能力を持った人は極少数です。能力の団子状態の中から抜け出られないワタシの如き凡人は、同程度の能力の他者と競い合わなければならないのです。そしておそらく多くの人が、同じような境遇に在るのではないか?とも思います。

 であれば、この世に生まれ出た瞬間に、この競争の海、「レッドオーシャン」に投げ出されたようなものです。そして人生は、「レッドオーシャン」を往く過程の中に在る。・・・と。故に、「レッドオーシャン」とは「生きること」そのもの。・・・と、換言可能なワケで、それから目を逸らすという事は、人生を直視しないという事にもなるのでは?

 誰もが平穏無事な人生、「ブルーオーシャン」を望みます。ワタシにしても同じです。しかし原則として、自分以外の存在と共存する上で、ある種の「生存競争」が生まれるのは事実なのです。少なくとも人間は、鶏、牛、豚などの肉を喰らい、殺生を重ねることで生きています。その時点で、「レッドオーシャン」にドップリ浸かっているようなものです。

 スポーツの世界は純然たる「レッドオーシャン」であり、その世界が一握りのスター・プレイヤーと、その他の平凡なプレイヤーによって成り立っていることは、みなさんも認めるところでしょう。それでもみなさんは、その「レッドオーシャン」の世界が好きですよね?

 逆に言えば、サラリーマンだとか公務員だとかは、会社、役所に保護されることで、擬似的に「ブルーオーシャン」に浴しているのかも知れませんが、会社をリストラされれば、いきなり「レッドオーシャン」の中に放り込まれてしまうワケです。・・・よね?そしてその精神的ショックから、自殺を考えてしまう人もいます。・・・よね?

 であれば、「レッドオーシャン」をと心得、他人に委ねることなく生きる覚悟をした方が良いのではないか?・・・などと、この虎舞竜まみれ・・・もとい、トラブルまみれの正月に思い至った次第です。はい。

 ま、「レッドオーシャン」を往くにしても、仲間とか、家族とか、力を合わせて闘う方法もありますからmmm。それに、仲間や家族と力を合わせて「レッドオーシャン」を往けば、お互いの絆も深まり、人生にも深みが増すんじゃないですかね?

 そういったワケで・・・

ヤラれてたまるかっ!

・・・と。


でわっ!