2011年1月17日月曜日

百術不如一誠

 「百術不如一誠」・・・文芸評論家の山崎センセイのトコで目にしたのですが、百の術(策謀)も、ひとつの誠意には及ばない。という意味らしいのですが、ワタシね?この言葉から、今まで何度か取り上げた、トルストイの「光あるうちに、光の中を歩め」が思い浮かべました。・・・はい。

 ざっと繰り返しますが、パンフェリウス(という名前だったか?)が信仰に目覚め、信仰の道を歩もうとするのを、彼の年老いた友人が諭すワケです。曰く、「世渡り上手になりなさい。」と。

 そしてパンフェリウスも、自分が今手にしているものを捨て去ることが出来ず、何度か信仰の道を進もうと決意?はするものの、その都度思い直して元の生活に戻っていくワケです。

 そしていよいよ彼、パンフェリウスの人生も中盤に差し掛かった頃、人生とか、生命の炎が、いずれはその光を失うという事を実感し、「光あるうちに、光の中を歩む」ことを決意する。

 ・・・そんな物語だったと記憶しているのですが、人には何かしらの「信念」があるものです。「世渡り上手最高!」というのもまた、ひとつの「信念」でしょうが、ワタシから見るに、「世渡り上手」とは、あくまでも自分の周りの状況に則する、「生き方」としての一方便であり、苦難を避けるためだけの受身の発想のようにも思えます。

 逆に「信念」とは、自分の行動の「起爆剤」のようなもので、苦難に立ち向かうことも厭わず、同時に自分という人間の「核(コア)」になるとも考えられるのではないでしょうか?

 テレビドラマとかで、「自分をごまかすな!」とか、「自分に嘘はつけない!」とか、「自分を曲げるな!」とか、登場人物がよく口にしますが、この、「自分」という言葉の中には「信念」も含まれていますよね?

 ところで「信念」自体には善も悪もありません。悪いことでも「信念」を持って行うことができます。そのことは「情熱」という過去記事の中で少しばかり触れましたが、では何故?「悪(利己的な信念)」は長続きしないのか?


「善」は調和をもたらし、
「悪」は不調和をもたらす。


 ・・・と、以前ワタシの持論を述べました。わかりやすく言えばこれは、みんなが共存可能な社会を目指すのか?それとも、一部の人間の為だけの社会を目指すのか?という選択でもあります

 「心の種」のハナシもそうですが、どんな善人の心にも「悪」の種が在り、どんな悪人の心にも「善」の種が在る。このことは善人にしても、悪人にしても、「信念」はグラつき易いという事を意味します。従って悪人は悪人なりに、自らの「信念」を護るために悪魔信仰(サタニスト)への道を進むのだと解釈できます。

 確かに過去ワタシたちは、厳しい生活環境の中を生きて来ました。従って、「先ずはわが身を守る。」という考え方は排除できません。・・・ていうか、当然の権利です。広い目で見れば、「善人」だろうと「悪人」だろうと、

生きている

 ・・・事においては平等です。同じ人間なのですから。世界中の全ての人間が、「生きる」という存在行為において100%平等です。

百術不如一誠

 ・・・の、「百術」はイイとして、「一誠」は人によって、国によって、時代によっても、考え方が分かれるところでしょう。・・・が、もし、普遍的な「誠(真理?)」があるとしたら、ワタシたちがこの世界で生きてる事が・・・日常の生活が・・・善も悪も含めた真理そのものであり、次に、この生活を・・・暮らしを・・・「守る」という行為を、「誠」と呼べるのではないでしょうか?

 利害の対立が存在するのは仕方のないことです。それは自分という「存在」の証明でもあります。しかし、過剰な自己利益を求めるが故に、他者(弱者)を犠牲にし、時には「死」に追いやるような世界、社会は・・・

「誠」の道から外れている。

・・・と思えるのですわ。ワタシには。


でわっ!