2011年6月18日土曜日

教育の自由

 このたびの「東日本大地震」にて被災された方々にお見舞いを申し上げるとともに、災害にてお亡くなりになられた方々のご冥福を、心からお祈り申し上げます。


「スポーツ基本法」制定への諸問題(上)


「スポーツ基本法」制定への諸問題(中)


「スポーツ基本法」制定への諸問題(下)


 唐突ですが、「教育」とは「教え育(はぐく)む」の意であり、では、「大人」は「子供」に何を「教え」たらイイのか?と、考えるに、それは究極では「生き方」ではないかと思う次第です。

 元来?日本の庶民レベルの教育とはそういった生きる為のスキルの伝授であり、それが社会的に広まったのが江戸時代の「寺子屋」辺りからではないか?・・・と、同時に各藩にも「藩校」があり、士族の子弟が「エリート教育」を受けていたワケですが、志しが有れば、高名な学者の下で武士と町民が机を並べることも出来たワケです。

 一例ですが、皆さんよくご存知の「伊能忠敬」においては、よわい50才を過ぎてから江戸の天文学者の下で測量技術を収め、そして「日本の測量」という大事業を成し遂げたワケです。伊能忠敬が日本地図を作成したことで、幕府は日本、日ノ本という国を実体として認識可能になり、ひいては後の「国家」という意識の基礎になったこと、そして開国、明治維新に向かった流れは、想像に難くありません。つまり、伊能忠敬がはじめて「日本という概念に形を与えた。」・・・とも言えます。

 で、何が言いたいのか整理すると、過去において「教育」は決して「国家戦略」などではなかったという事。個人個人が自分の個性に合った「学問」を学び、その人自身の「埋もれた才能?」を開花させ、それがひいては社会にも還元されて世の中が変化して来た。・・・という経緯が見受けられるワケです。

 またまたわき道に逸れますが、本田宗一郎氏にしてもクルマをイジルのが大好きで、それが高じてF1にまで参戦したり、世界のホンダと呼ばれる企業にまで成長したワケですが、ホンダが本当に凄いのは、ホンダの飛躍の原点となった「スーパーカブ」を未だに生産し続けているという事です。そして今なお「カブ」は日本のみならず、世界中で愛されているという事です。自らの「ものづくり」の原点を忘れないという姿勢には、ホント、頭が下がります。

 「教育」が「法律」でがんじがらめに縛られてしまっては、自由な発想、学習の自主性が殺がれかねないように、「スポーツ」も、「法律」などで規制、保護されるようになると、逆に弊害が増えるのではないかと危惧する次第です。なぜなら、次世代のスポーツ選手は常に若者、青少年の中から現れ、本来、自由に伸び伸びとスポーツを「楽しむ」のが正しい?スポーツとの接し方だと思うワケですが、周りの大人たちが「法律」によって、若者の自主性を阻害する可能性も考えられるからです。


<転載>

スポーツ基本法 国民が楽しむ環境整えて
西日本新聞 2011年6月18日 10:41

<抜粋>

 体育が教育の一環であるのに対し、スポーツは一種の文化ともいえるだろう。しかし、これまで日本では、学校体育を中心に据えたスポーツ振興が図られてきたため、社会的にもスポーツを文化的側面から捉えることは少なかった。

</抜粋>

</転載>


 先のリンク、「スポーツ基本法」制定への諸問題(下)」でも触れていますが、

 
<抜粋>

 「日本スポーツ法学会」のメンバーには弁護士が多い。創立当初は大学教員が大部分だったのだが、プロ野球やJリーグで選手の代理人を務める弁護士が出てきてから様子が変わってきた。これも時代の流れである。 

</抜粋>


つまり、弁護士連中が自分の仕事を増やさんが為、「スポーツ基本法」を作りましょうと動いているようにワタシには映るワケです。


<抜粋>

 ★連帯責任は「スポーツ権」の侵害

 「個人責任」であるはずの犯罪で、関係のない部員が、「連帯責任」だとしてスポーツに参加する権利を奪われた。だからといって訴訟を起こそうとしても、ぴったり当てはまる法律の条文がない。憲法で保障されている人権を侵害されたということはできるが、スポーツをする権利が基本的人権として規定されているわけではない。そこで、スポーツに参加する権利を「スポーツ権」として明記しようという議論である。

 この問題を裁判で実際に解決しようとしているわけではないだろう。しかし、新しい法律で、こういう連帯責任を問う処罰は違法であることを認識させれば、大会主催者もそういう処罰はしないようになるだろう。

 国民はひとしく、スポーツに参加する権利を持っており、その権利をほしいままに奪うことはできない。そのことを明確に方向づけする必要がある。

</抜粋>


 以前、甲子園の優勝候補と目された野球部が、部員の不祥事から出場を辞退し、それを周りの大人が可哀想だと同情する趣旨の記事を見たことがありますが、ワタシもね?勿論同情はしますが、世の中には


しょうがない。


・・・と、諦めなければならない「不条理」は山ほどあります。よね?今回の原発事故にしてもそうです。起きてしまったものはしょうがないと、先ずは現実を受け入れるしかないのです。その後で、冷静に事後処理を検討するのが「逞しい精神力」なのではないでしょうか?

 どうしようもない状況、それにもメゲずに前へ進む意思。そういった「人間性」をも子供たちに育むのが、大人の務めの様に思うワケですよ。でないと、次の世代に繋がりません。

 全てを「法律」の枠の中で処理しようとすると、逆に「法律」がなくなった時にどうしたらいいのか自分で決められない、脆弱な若者が増えるといった事態にはならないのでしょうか?「マニュアル人間」のような・・・。いかなる法律も最初から存在していたワケではありません。人間が勝手に作ったものです。したがって或る日突然、無くなる事だってあり得ます。

 しかし一度築かれた「人間力」・・・チームメイトに対する信頼であったり、他人との協力関係であったり・・・は、そう易々とは失われないでしょう。人によっては一生続くものかも知れません。どんなに賢くても、運動能力が突出していたとしても、チョットした問題に直面すると何も出来なくなってしまう人間集団より、多少出来が悪くても、困難を乗り越えて行く「逞しい精神力」を持った人間集団の方が、まあ、「国」とか「国家」にとっても好ましいワケでしょ?

 前述の西日本新聞の論説を拝借するならば、「教育」と「文化」は切り離して考える必要があり、学生として参加する催し・・・、「甲子園」だとか「高校サッカー」だとかの諸々の大会は、学業=教育の延長線上にあり、技術の優越のみを競うプロスポーツ=文化とは一線を画す。・・・と、ワタシは思うワケです。

 ま、「新しい法律」が生まれると同時に「新しい利権」が生まれ、その利権のおこぼれにあやかろうとする輩がワラワラ沸いて来る。・・・と、いうワケですな。スポーツを純粋に愛する若者を、商売のネタにはして欲しくないものですな。・・・はい。


2020年五輪、東京招致を石原知事が表明
2011年06月18日 11:21 発信地:東京


スポーツ基本法(仮称)に反対する


 
でわっ!