このたびの「東日本大地震」にて被災された方々にお見舞いを申し上げるとともに、災害にてお亡くなりになられた方々のご冥福を、心からお祈り申し上げます。
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若者はもっと「自己中」になって社会を変えろ~「絶望の国の幸福な若者たち」著者インタビュー~3
2011年10月28日11時30分
本当に若者が「不幸」だとは思えない
―古市さんは、昨年『希望難民ご一行様 ピースボートと『承認の共同体』幻想 (光文社新書)』という著書をご執筆され、現代の若者を語れる識者として注目を集めました。今回のご著書、『絶望の国の幸福な若者たち』を書かれた経緯をお聞かせください。
古市:『希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体』幻想』は、ピースボートのルポ兼研究書として執筆しました。これは修士論文を元にした本で、僕の中では若者論というよりもコミュニティと若者の関係をテーマに描いたつもりだったんです。元々修士論文も共同体論がテーマでした。
だけど、この本を出した後に、いろんなメディアから取材を受けて、そこで聞かれることはピースボートについてではなくて、「若者論」であったり「今の若者は何故立ち上がらないのですか」みたいな若者全体の質問ばかりだったんです。
はじめは、そんなこと聞かれても知らないよって感じだったんです。ピースボートについてはわかるし、そこからいえることはいくつかあるけれども、若者全体については特にデータや知識を持っているわけではない。そうした経緯もあり、少し真面目に、正面から若者論に取り組んでみようと思って書いたのが今回の本です。
―こうした書籍を出されると、現代の若者をしっかりと語れる「若者の意見の代弁者」のような印象を、読者やメディアから持たれると思います。しかし、実際の内容を読んでみると、若者へも上の世代にも距離をとりつつ執筆されているように感じました。この書籍は、誰に対するメッセージなのでしょうか?
誰のための本かといえば、自分のための本なんです。本の執筆や研究は趣味みたいなものですし、いろんな本を読んで、話を聞いてまとめる、というのは自分が好きなでやってることです。広く誰に向けてというわけではなく、基本的には自分が整理するために書いた。
もう少しパラフレーズして言うと、「自分のため」というのは「ここで大学院生や研究をしていなかった自分のため」という意味でもあります。僕が今ここでこうしてインタビューを受けて、何だかそれっぽいことを研究者気取りで語っていることは(笑)、無数の、少しも当たり前ではない分岐点の結果としてあることだと思うんですね。
別の大学に行っていたら、今一緒に働く友人に出会っていなかったら、たまたま社会学の授業をしていなかったらとか、本当にいろんな分岐点があったと思うんです。そういう様々な可能性の中で、自分は今研究者として、この時代を生きている。結果的に、今度の本を書くことは、「ここにいる自分」「ここにいなかった自分」を含めて、今の時代を生きる意味を自分なりに考える作業になったかなと思います。
もちろん、本が結果的に僕以外の人に読まれ、少しでも何かの役に立ったならもちろん嬉しいです。って、格好良く言い過ぎました。
―「今の時代に生きることの意味」を考える上で、若者分析というのが出てきたということでしょうか?
古市:みんな「若者語り」が大好きですよね。「最近の若者は車を買わない」とか「若者は格差社会の被害者であり、弱者だ」とか。そういうことが色々言われているんだけれども、自分自身として、つまり「若者」として、いまいちピンとこなかった。
そこでピンと来ない理由を明らかにしたいと思ったんです。
今って、貧困、格差社会、不況など今の日本をネガティブに語るためのネタはたくさんあって、若者を不幸に語ることは非常に簡単なんです。
だけど、僕自分に「不幸」だという実感はなくて、周りの友人を見てもわりと楽しそうに暮らしている。確かに大人がいうように社会的地位で見れば、フリーターで社会保険料も払っていないとか、きわどいことをしている人もたくさん居ますが、そんなに不幸そうではない。むしろ楽しそうに見える。大人たちのいう「不幸な若者像」とは多く乖離している実態があると思ったんです。そのギャップが何故生まれたのかという部分に疑問を持ったことも、この本を出した動機のひとつです。
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「今の時代を生きる意味を自分なりに考える。」・・・とういう欲求は、誰でも心に持っています。もちろんワタシも。よく聞く、「楽しければイイじゃない。」・・・というのも、「楽しい状態を求める」ことで自分の存在の意味を確認していると言えます。その他にも様々な意味(理由)を持ちながらみんながこの時代に生きているワケですが、共通なのは、「誰もがストーリーを求めている。」・・・ということかと。
人は生まれてから死ぬまでの間に、人生というストーリーを書き続けるワケですが、それは人生の軌跡でしかないのでしょうか?えっと・・・つまり、今この瞬間の人生の1ページが、自分の行為の結果として偶発的に生まれるものなのでしょうか?だから・・・その・・・もしそういった、偶発的に発生した出来事の積み重ねが「人生」だとしたら、それは「自分の人生」だと言えるのでしょうか?
川面を落ち葉が流れるが如く、上流から下流まで落ち葉が流れて行った軌跡を、「落ち葉の人生」と呼べるのでしょうか。それはただ単に、落ち葉が川の流れに流されて行ったと考えられるのではないでしょうか?落ち葉が川の流れに流されつつも、「自分の意思」で流れて行く先を選んでこそ、「落ち葉の人生」と見做される。・・・と、ワタシは思います。
したがって、今この瞬間を生きる全ての人には、今この瞬間に先立つストーリーが無ければ、自らの「生の軌跡」を「人生」と呼ぶことは出来ない。・・・という理屈になります。(へ理屈かも知れませんが。)
で、その「先立つストーリー」は、人それぞれなんだろう。・・・と。「今が楽しければイイ」・・・というのも自分なりのストーリーですし、「貧困や格差の問題を無くしたい」・・・と考えるのも、自分に意味を与えてくれるストーリーです。それが刹那的な「短編」であるか、はたまた「長編」であるかという違いはありますが。
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若者はもっと「自己中」になって社会を変えろ~「絶望の国の幸福な若者たち」著者インタビュー~4
2011年10月28日11時30分
誤った「若者論」を是正していきたい
―ですから、著書の中では、「若者論」の歴史を紐解くところから始められているわけですね。かなり丹念に調べられていて、戦前も戦時中も現在と同じような若者批判が存在したことを明らかにしています。
古市:「若者がけしからん」という主張を単純に批判しても仕方ないと思ったんですよ。
色々言われているじゃないですか、「最近の若者は脳幹が腐ってる」とか。そういうのに反論していくことは簡単です。エビデンスを持ってきて反論すればいい。でもそれにあまり意味はないと思ったんです。
逆に何故そういう「若者はけしからん」「若者は○○だ」という若者論が繰り返されてしまうのか、という部分を解きほぐさないと研究として意味がないと思ったので、そこは明治時代にまで遡ってやりました。
―著書の中では、石原慎太郎氏などの発言を挙げて、見当はずれな若者論を語る上の世代への反感がある一方で、現代の若者に対しても冷めた視線を送っているように思えるのですが?
古市:研究者としての立場で書いた本なので、執筆の過程でインタビューをさせていただいた方々に共感する一方で、突き放した態度も必要だと思ったんです。研究者としては、対象に寄り添うような姿勢と両方が必要ですから。それはかなり意識した上で書きました。
まぁ石原慎太郎さんに関しては、単純に面白いから取り上げただけです。どこまで本気で、どこまで本気じゃないのかわからないですし、あのキャラクターは色々と参照しやすかったので。
―メディアに「若者代表」みたいな形で取り上げられることには違和感がありますか?
古市:違和感はないわけではないですが、研究者として出来ることはしようと思ってます。本当にどうしようもない若者像を語りたがる人が未だにいるので、そういう間違った若者のイメージは是正していくのは、ある意味研究者の責任みたいなものですから。
例えば、「最近の若者は内向きで全然海外に行かない」なんていう話は、ちょっとデータを見れば、すぐに事実誤認だとわかる話です。留学生にしても、海外出国者にしても20代の人口が減っていることを勘案して、割合でみれば逆にバブル時代より増えている。そんなことは誰でも手に入る統計データを見ればわかる話です。
ただ、そんな基本的な確認もせずにメディアが簡単に数字だけを取り上げてしまう。そういう誤りに対して、シンプルに批判できるところは批判したいと思っています。
僕は今、国立大学の博士課程に所属していますが、大学院生の存在というのは、国の税金で成り立っています。施設費や大学職員の人件費を勘案すると、学生1人に対して100万、200万くらいは掛かっているのではないでしょうか。その分ぐらいの役割は果たしたいなと。
―そういう意味では、ネット上のユーザーからは、古市さんがエリートだから、というような反感も受ける可能性もあるかと思うんですが。
古市:そうですね。僕がエリートかどうかは置いておいて、東大の院生とか慶応の研究員とか、本当はたいしたことではないんですが、肩書きを見たらどうしても付いてきてしまうイメージというものがある。それに対する責任、役割は果たしたいなとは思っています。結果的にマイナスなイメージをばら撒いている気もしますけど(笑)。
学問の世界って先細りだと思うんですよ。大学で研究を続けていてもあまりポジションはない。そもそも象牙の塔の中だけで通用するような研究は、社会に求められていない。社会に余裕があればいいんでしょうけど、そういう時代でもない。研究費は削減される一方です。
だけど象牙の塔は象牙の塔ですごく面白いんですよ。他の人が絶対にやらないようなテーマを一生かけて追求している人がいたり、研究者以外には読まれないというだけで、面白い研究はたくさんある。
それがそのまま誰にも知られず消えていくってもったいないじゃないですか。だから、そういう学問の世界と社会をつなぐ役割を果たしたいとは思っていますね。
『絶望の国の幸福な若者たち』も、そういう書き方をしたつもりです。アカデミック志向な人が読んで参考になる部分もあるし、逆に普段学術論文を読まない人でも、楽しんでもらえるぐらいの書き方をしようと思って色々と工夫はしてみました。
そこは非常に難しい部分で、アカデミックになりすぎれば一般の方から「眠くなる」といわれますし、逆に研究者からは「これじゃ、研究としてゆるすぎる」と批判を受ける場合もある。しかも、意外と負担も大きい。だけど、今回の本は割りと評判がよくて、良かったなと思っています。まあ、大学院の友だちからはものすごくディスられてるんですけど(笑)。
―東浩紀氏(批評家・作家)や宮台真司氏(社会学者・首都大学東京教授)以降の世代でアカデミックな立場から社会問題をわかりやすく語れる方がいなかったと思うのですが。
古市:そうですね。ただ、僕の同世代ぐらいからちょこちょこ出てきてはいると思うんです。『「フクシマ」論』を書かれた開沼博さんは、僕と一つ違いです。あとは『困ってるひと』を書いた大野更紗さんも同学年ですしね。あの本はエッセイですけど、大野さんは日本の福祉や医療の問題、ミャンマーの難民問題についての研究者でもあります。
―例えば、本田由紀氏は「虐げられている若者」を論理的に補強する存在と考えることができると思います。若者論の研究者として、古市さんは、今後どのような立場をとっていかれるおつもりですか。
古市:そこにはあんまり興味がないんですよ。間違った若者像を是正したいというのはありますし、そこには責任を感じますけど、別に啓蒙的に、「こうしよう」とか「こういう風に生きよう」という提言をすることには興味はない。だから、この本も結論はすごく曖昧。提言らしい提言はありません。かろうじて言えるのは「結局のところ1人1人が考えていくしかないんだよね」ぐらいのことです。
啓蒙的、断定的に「こう生きるべき」なんて言えないですし、言えたとしても、それぞれに個別の事情があると思うので、意味がない。だから、若者世代の理論的支柱になるつもりはないですね。そういうのは、もっと熱い人に任せておけばいいんじゃないですか。
僕は研究者として、世の中の仕組みとか仕掛けとか、こういう風になっているんだよっていうことは示せる。だけど、示すだけでその後は自分で考えてくださいとしか言えないですね。そもそも僕は基本的に「自分さえ良ければ良い」っていう人間なんで(笑)。
―それは論壇の先輩方から反感を受けそうなご意見ですね。
古市:そうかもしれません。でも、自分が満たされていない人に、本当の意味で他人のことを考える余裕なんてないと思うんですよ。逆に、自分が幸せじゃない人が語る日本社会の理想的な姿や未来に、あんまり興味はない。
たとえば家族が崩壊してて、友達とも上手く行ってない人から、いくら日本の未来とか社会とかを語られても説得力ないと思いませんか?そんな人が夢想する社会には生きたくないです。
―そうした主張が、ご著書の「身近な人間との関係一つ上手くマネジメントできないで何が国だ」という発言に集約されるのですね。これは、若者に向けた台詞なんでしょうか?
古市:いや、これは自分の不幸を国家語りで誤魔化しているように見える年配の不幸な言論人たちを揶揄した言葉ですね。逆にネット右翼みたいに言われている若者に対しては「居場所が見つかって良かったね」という感想しかないです。
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概ね賛同するんですケド、「自分が一番大事」なのイイとして・・・「じゃ、自分が依存する社会はどうでもいいワケ?」・・・となると、社会が崩壊してしまったら自分の生存確率も低くなるワケで、その辺は今まで何度も述べた様に、ワタシたちは「社会という共同体」が無いと一人一人はとても弱い存在なワケですよ。
で、極論を言えば、「お金(通貨)」が存在しなくても、物々交換で社会を維持することは可能です。そこに庶民同士の相互交流があれば。
しかし、「現物(生活物資)」が無くなると、例え何億円、何兆円を銀行口座に持っていても、何の役にも立ちません。社会も崩壊します。
そうなると、「物を生産する人」と「お金を生産する人」と、どっちが社会的により重要であるか?幼稚園児でも分かります。しかるにTPP推進論者は・・・
幼稚園児以下ですか?
日本の産業を、日本の社会を守れなくして、個人を守ることなど叶わないワケです。・・・よね?
でわっ!