2011年10月1日土曜日

七十にして心の欲する所に従って、矩(のり)を踰えず。

 このたびの「東日本大地震」にて被災された方々にお見舞いを申し上げるとともに、災害にてお亡くなりになられた方々のご冥福を、心からお祈り申し上げます。


 脳科学者茂木健一郎氏が、自身のブログ「クオリア日記」にて孔子「論語」について言及しているのですが、ワタシなりに思う事がつい最近あったので、その事について少し書きたいと思います。


<転載>

茂木健一郎 クオリア日記
2011/10/01
宮野勉と老荘思想

<抜粋>

 人間にとっての倫理は、この世界において「生き延びる」ためにこそ進化して来た。現世人類に至る長い進化の歴史においては、自分の欲望が満たされることよりも、むしろ満たされないことの方が多かった。マルサスの「人口論」を引くまでもない。「食べたい」という生物として最も基本的な欲望でさえ、満足できずに死に瀕することは普通だったのである。私たちの脳は、欲望が必ずしも満たされないという条件の下で進化して来た。欲望を周囲の環境に合わせて調整する脳の仕組みがあることはむしろ当然のことである。倫理は、何よりも生物学的な必要の下に進化してきたのである。

</抜粋>

</転載>


 先日、VISAの期限切れが迫ってきたので、5年来更新をお願いしているローカルの旅行会社を訪ねると、ナント!事務所が移転していてもぬけの殻。ま、それでも携帯の番号は知っていたので電話してみると、知らない若者(ベトナム人)が出て「ワタシ英語ワカリマセン。」と。

 ワタシもベトナム語が達者な方ではないので、つっ込んだ状況を電話で聞き出す事も叶わず、「さて、どうしたものか?」と無人の事務所の前で当惑していると、スグ横のカフェのおじさんが「つい最近ひっこしたよ。」と、教えてくれました。そして、「携帯に電話してみなさい。」と。

 「電話したけれど本人が出ないんです。」と答えると、「じゃあ、別な電話番号を教えてあげよう。」と言い、カフェの奥から娘さん?を呼び出し、彼女の携帯にメモリーされている別な番号を教えてくれ、その番号に電話してみると聞き覚えのある声が。

 かくして無事にVISAの更新をお願いすることが出来たのですが、(引っ越す前に連絡のひとつもチョーダイよ。)と思ったのは言うませもありません。が、ベトナムのことですから、こういった突発的な事態は頻繁に起こるので、連絡が取れただけでも「好し」と言えます。

 で、ワタシとしては(ラッキー!)と思ったのですが、「ラッキー」=「幸運」て、誰に感謝すればイイんですかね?みんな「幸運」を願い、神社とか?お寺とか?パワースポットとか?に行きますよね?

 しかし、ワタシを助けてくれたのは神様じゃなくて、カフェのおじさんだったワケです。ジッサイ。従って、(感謝すべきなのは、カフェのおじさんだよなあ。)と、思った次第です。

 ワタシに限らず、困ったときに思いもかけない人に助けられた経験て、誰にでも有るんじゃないでしょうか?茂木氏が言うところの、「寓意性」「不確定性」によって救われる事もあれば、災難に遭う事もあります。

 今回の場合は「助けられた」ワケですが、ワタシにしてみれば何故カフェのおじさんが親切にしてくれたのか、不思議と言えば不思議です。今まで一度たりとも、おじさんのカフェに入ったことは無く、当然、言葉も交わしたことすら無いのに。

 以前、フエに旅行した時、王宮の周りをぐるりと一回りしようと歩いていたら、自転車のチェーンが外れて困っている女の子に2回も遭遇しました。もちろん2回とも、手を油だらけにして外れたチェーンを掛け直してあげたのですが、ワタシはベトナム語が未だ話せず、女の子の方も日本語が話せるワケもなく、もうね?たまたまその場に居合わせたというだけで分かるワケですよ。


自分が何を為すべきか。


 カフェのおじさんも、きっと同じだったんだろうと思うワケです。何と言うか・・・やるべき事があり、やるべき事をやる。その瞬間には人種だとか、性別だとか、年齢だとか、そういったものは吹っ飛んじゃうんじゃないか?と。つまりそこに在るのはただ、


同じ人間としての共感


なんじゃなイカ?・・・と。簡単に言うと、「困ったときはお互い様。」なのではなイカ?・・・と。

 この、「お互い様」という概念。更に言えば「お蔭様」という概念は、広い視野で見れば「個でありながら全体であり、全体でありながら個でもある。」という英知に思えます。

 人は一人では生きられません。必ず誰かの補助がなければ生活を、社会を維持する事は出来ません。毎日の食事にしても、食料を生産してくれる人がいるからこそ「グルメ」だとか言ってられるワケで、おいしい料理は料理人はもちろん、食材を生産・供給している人達など、様々な人の手を介してはじめて成立するワケです。


 齢70に達した孔子は「死」を意識したことでしょう。そして、「死」の対極に在る「生」を振り返った時、そこに「人間の集団」の中で生きて来た自分の人生が、「走馬灯」の様に駆け巡ったのではないかと。

 
七十にして心の欲する所に従って、矩(のり)を踰えず。


 「人間の集団」に埋没するのではなく、「人間の集団」を俯瞰すれば、「自分の存在が、必ず誰かに繋がっている。」という思いに至れるのでしょう。それが、「矩(のり)を踰えず。」=「過剰なエゴを追求せず。」の意ではないか?・・・と。

 欲望が人間を進化させて来たのは事実ですが、同時に「進化の在り方」も問われる必要はあります。個人的な進化(エゴの具現化)なのか、それとも社会的な、全体的な進化なのか・・・。

 「ヤマアラシの夫婦」の例え話は有名ですが、人は皆、「エゴという棘」を持っています。そして皆が身を寄せ合って生きています。お互いの間合いを計りながら、この社会を形成しています。おそらくそれは、痛みを我慢し合いながら・・・。

 「矩(のり)を踰えず。」=「許容範囲を踰えず。」とは、自らの棘(エゴ)の分をわきまえる事に他ならず、その境地・・・「個でありながら全体であり、全体でありながら個でもある。」・・・に至るには、孔子の言う様に人生70年を経ないとならないのでしょうねえ。
 
 現在、東京電力の企業体質が問題になっていますが、東京電力は「矩(のり)を踰えてしまった。」ワケです。一企業のエゴから原発を推進し、「人間の集団」の存在をないがしろにしました。しかしこの事は東京電力に限らず、全ての企業にも問いかけられる命題であると思う次第です。はい。


でわっ!