2006年5月21日日曜日

「ナウシカ」復活上映に寄せて

「ナウシカ」復活上映に長蛇の列

 第59回カンヌ国際映画祭で18日夜(現地時間)、宮崎駿監督(65)の「風の谷のナ ウシカ」(84年)のニュープリント版が上映された。
 往年の名作や名優の作品を上映する「カンヌ・クラシック」部門に選出。宮崎アニメ 人気は欧米でも絶大で、開場の1時間前から行列ができた。約450人収容の劇場が ほぼ満席になり、上映後は拍手喝采。エンドクレジットで宮崎監督の名前が出ると、 歓声まで上がった。


 一番乗りで並んだドイツ人記者は「ビデオでしか見たことがなかったので、劇場で見 られてよかった」と感激。フランス人男性は「ファンタジーだけど、人間と環境の関係 の大事さを描き、とても深みがある」と話した。

< 後略 >

(スポーツニッポン) - 5月20日6時5分更新
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060520-00000019-spn-ent


22年の時を経た作品にも拘わらず今の時代にも受け入れられるのは、
「風の谷のナウシカ(以後「ナウシカ」)」に
時代や地域を超えた普遍的なテーマが在るからでしょう。
見方を変えれば、時代は未だに宮崎駿監督が作品で提示したテーマ(問題)に
到達(解決)することが出来ずにいる・・・

「ナウシカ」の世界を今日の「日本」の状況に照らし合わせると、

最終戦争
環境問題
民族紛争
新種の疾病

北朝鮮の核ミサイルの脅威
水俣病やアスベストの被害患者
靖国問題
AIDS患者の増加

といったところでしょうか?
そしてこれらの問題は、何処の国でも違う形で当てはまる問題でしょう。
「ナウシカ」がもしベトナムで上映されれば
ベトナムの若者も必ず映画からのメッセージを受け取るハズです。

ところで、劇場版の「ナウシカ」では
オーム(王蟲)が人間の創造物であることには触れられていません。
オームに限らず、腐海とその周辺に棲息する全ての生物もそうです。
人間すらも・・・

「ナウシカ」の原作は、謂わば「MATORIX」です。
いままで真実だと思っていた世界が実は人工的に造られた仮の世界に過ぎない。
その事実に気づいた時、一体何を頼りに生きて行けばいいのか?

「ナウシカ」の原作の中でナウシカ(宮崎駿監督)はこう言います。

「確かにオームは人間(火の7日間後の世界の再構築の予定を立てた科学者たち)によって造られた生物かもしれない。しかし、オームに宿る高貴な魂はオーム自身のものだ。」

(うる覚えですが・・・)

科学が進歩すればするほど、「魂」の存在問題は避けて通れません。
もはや現代の生命科学のテクノロジーは
新たな生命を創造するレベルまで高まっています。
しかし、「器」は造ることができても、その「中身」は?
もしそれが可能になったら、
その時こそ人間は「神」になるのでしょう。
もう「ガフ」が空っぽになることは無いのですから。


-以下引用-

『風の谷のナウシカ』を批判する
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/nausika.html

< 前略 >

宮崎はこう語っています。

「いちばん大きな衝撃的だったのは、ユーゴスラビアの内戦でした。もうやらないだろ うと思っていたからです。あれだけひどいことをやってきた場所だから、もうあきてるだ ろうと思ったら、飽きてないんですね。人間というのは飽きないものだということがわか って、自分の考えの甘さを教えられました」

「『ナウシカ』を終わらせようという時期に、ある人間にとっては転向とみえるのじゃない かというような考え方を僕はしました。マルクス主義ははっきり捨てましたからね。捨 てざるをえなかったというか、これは間違いだ、唯物史観も間違いだ、それでものをみ てはいけないというふうに決めましたから、これはちょっとしんどいんです。前のまま の方が楽だって、今でもときどき思います。……労働者だから正しいなんて嘘だ、大 衆はいくらでも馬鹿なことをやる、世論調査なんて信用できない」

 ドルクの初代皇帝が「墓所の主」から知と技をうけとり、進歩の理想にもえながら、 最後にはドルクが巨大な抑圧帝国に変質していくのはソ連の歴史に重なります。また 宮崎はこんなことも言っています。

「自分の観念で、自分の感じたものをなんとかねじ伏せようとしてきた。それもやめた 。今の政治家でも、ただ印象だけで見てます。…政治家としての能力がなくても、この 人、いい人だと」

 ここには、理論への不信、自分の実感(好きだとか愛しているとか)への信仰、人間 の進歩への懐疑といった、ナウシカが最後に主張したことがすべて顔を出しています 。

 この批判はくりかえしませんが、マルクスについては一言いっておきたいのです。

 マルクスは、理想社会の絵図はまったく書きませんでした。彼の残した大著『資本 論』は徹頭徹尾、現実の分析です。労働者階級だからいつも正しいなどという見方と も無縁でした。蜂起した民衆の未熟が、革命を失敗に終わらせたことも冷静に分析し ます。「利潤追求にふりまわされる社会をのりこえて、人間が社会の主人公になる」と いうマルクスの次社会の大まかな特徴づけと、ソ連はまったくかけ離れたものとなり、 それ自体、マルクスと無縁のものでした。

 そういう意味では宮崎のいっている「マルクス主義」とは、宮崎のもっていた貧しいマ ルクス主義観であり、それが「崩壊した」にすぎません。しかしいいたいことは、そのことではありません。

 マルクスは、現実(資本主義)の格闘やたたかいのなかで、人権や民主主義、経済 運営感覚にすぐれた人間の個性が準備され、次の新しい社会をになう基礎が、資本 主義そのもののなからつくられることに注目しました。

 つまり、「墓所の主」のしめした理想や進歩と、ナウシカが直視した人間の現実を、 いっそう高い立場で統一させたすぐれた理論家であり、私たちの答えもそこにあるよう な気がしています。

-引用終わり-


「ナウシカ」の原作を未だ読んでいない人にはチンプンカンプンでしょうし、
私は門外漢なのでマルクスについても語れません。
機会があったらマルクスの著作を紐解いてみます。
どこかの誰かさんの「マルクス評論」でなく、自分の頭で理解する為に。

さて、原作のエンディングも劇場版のそれとは大きく違います。
劇場版ではオームの触手が
伝説の「金色の大地(だったか?草原か?)」に見立てられていますが、
原作では巨神兵が焼き尽くした墓所の荒涼とした跡地が「金色の大地」とされ、
そこで蟲使いたちが「再生の踊り」を舞います。
そして、劇場版が「伝説の成就」というある種、HAPPYENDだったのに対して、
原作は「宿命を背負え」と投げかける、重~いエンディングになってます。
「宿命」を背負いながら前へ進め。
たとえ今はそれが絶望的な未来であっても。・・・と。

「絶望」を前に人は「虚無」に囚われてしまいます。
だから「虚無」から逃れるために、
人は目先の「娯楽」を求めるのではないでしょうか?

そういえば、やはり昔~し読んだリチャード・バック(「かもめのジョナサン」著者)の
「イリュージョン」(村上龍 訳)のあとがきで、村上龍が、

「人生は退屈との戦いだ。」

と書いていたのを、フト思い出しました。

「ナウシカ」についてはもう少し自分なりに掘り下げてみたいと思います。