2006年5月13日土曜日

「格差」 3

「究極の格差」ってナンだろう?

結論から言うと「先天的格差」に立ち戻るのではないでしょうか?生存するための十分な能力が備わっているかどうかという、生命体として最も基本的な能力。

その能力が誕生した時点ですでに、もしくは後天性の外的要因によって失われてしまった「障害者」と呼ばれる人たち。

それに対して毎日を何の苦も無く過ごしている「健常者」の人たち。

時代が時代なら到底生き残ることなど出来ない「障害者」たちが、いまの時代には多く存在することは誰もが認めることでしょう。そして先進国であればあるほど「障害者」は手厚く保護(隔離)され、不可侵の存在としてある種の特権階級すら授かっています。

しかし、「どっこいおいらは生きている」とばかりに、ベトナム(サイゴン)では「障害者」が日常の風景そのものになっています。生きること自体の苦行を背負いつつ生きるその姿は、山奥で悟りを開こうと自ら進んで苦行を積んでいる修行僧の姿よりも、よっぽど「人間の原点」を私に示してくれます。

私も若気の至りで、何事もうまくいかない、面白くもないこの世界なんて


「核戦争でも起きてひっくり返ってしまえばいい!」


と、ふてくされていた時期もありました。今振り返っても、あの頃は自分の事だけ、自分が置かれている状況だけしか見えず、何とも恥ずかしいほど自分勝手だったものです。

それが後日、病院での入院生活とその後リハビリ生活を送る立場に自らが置かれ、多くの人たちが苦しみながら生きているのだという現実をこの目で見、そして短い間ではありましたが生活を共にすることによって、「健常な体」とはそれだけでひとつの財産だと思い至り、「障害者」と「健常者」の間には「絶対的な格差」が存在するのだと知りました。

将来、再生医学が発達すれば地球上から「障害者」は姿を消すかもしれません。が、その代わり命の重さや尊さもより軽くなるなるような気もします。もちろん私としては全ての「障害者」の方たちに「健常者」と同じ人生を歩んで欲しいと願うのですが、苦しみの中から生まれる花にこそ「神の愛」が宿るようにも思えるのです(私は無宗派なのですが・・・)。

「勝ち組」「負け組み」、「上流社会」「下流社会」、「エリート」「落ちこぼれ」「先進国」「後進国」、などなど「格差」を表す言葉はイロイロありますが、行き着くところは「金持ち」と「貧乏人」につきるのではないでしょうか?

「金持ち」は「後天的格差」によって富を蓄えた人たち。「貧乏人」は「金持ち」以外の人たち。社会が高度に発達すると何事にもお金がかかるようになります。でも、お金をかけずに人生を送る方法、お金をかけずに幸せになれる方法だって、まったく無くなってしまったワケではありません。社会のシステムにがんじがらめに縛られて「それ」が見えなくなっているだけなのです。かつて自分達で作り出したシステムに、今は自分達が苦しめられている・・・

「金持ち」のルールに従いたくなかったら、従わなければイイのです。「金持ち」にルールの変更を要求したところで、所詮は「金持ち」のルール。「後天的格差」は永久に無くならないでしょう。

「格差」と一言でいっても、その言葉の中に含まれる背景は非情に複雑です。「金持ち」の「障害者」を、「格差」を理由に「健常者」が責められるでしょうか?

いずれにせよ、「格差」そのものが社会のシステムの血肉となっているのですから、そのことをしっかり理解しないと「テロリスト」呼ばわりされちゃいます。


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