2012年12月12日水曜日

心の深呼吸


 鈴木邦男さんという「右翼の重鎮」の方が書かれている、その名も・・・


鈴木邦男をぶっとばせ!


・・・というブロクがあるのですが、その最新記事が秀逸でした。

 記事に書かれているように、「対立」を煽る連中が諸悪の根源なワケで、人間、「腹を割って話し合う」ことができれば、お互いの妥協点も不必要な争いをせずに見出せるものです。

 また、視点の違いから来る「イデオロギーのすれ違い」というのも、いうなれば「思考の欠落」から生じるものであり、意見の違う人とは意見を闘わせるのではなく、「思考の欠落」した部分を補完しあう関係になればイイのではないかと。

 もちろん、双方の中間点に「正解」があるワケではなく、「正解」らしきものはあくまでも普遍的な「理」に則してしる必要があるワケですが、その「理」が理解できないこと・・・それが、


バカの壁


によるものだと、養老孟司センセは喝破したワケです。




バカの壁 (新潮新書) [新書]
養老 孟司 (著)


 「話せばわかるなんて大うそ!」・・・と、本のオビには書いてありますが、コレって、出版社が本の内容を理解していないことからくる誤解としか思えません。

 養老センセの論旨は明確です。


同じ人間だろ?


・・・この一点に集約されます。

 「同じ人間」であることを忘れているから、そこに「バカの壁」ができてしまうワケで、自分の独善的な意見を押し通すために「バカの壁」を持ち出すのは、所謂インテリぶった連中のレトリックに過ぎません。

 つまり、頭の良し悪しとか、学歴の高低とか、「対立構造」の存在理由の便宜として「バカの壁」は語られ、ベストセラーになった割には、多くの誤解を受けたままの本ではないかと?

 で、ワタシが独自に「バカの壁」を読み解くに、「同じ人間だろ?」という部分の問いかけが甘かったから、多くの人に誤解されてしまったのだろうと思うワケです。

 しかし時が経ち、誰もが「同じ人間」であることを、まざまざと知ることになるワケです。福島第一原発の事故によって・・・。

 都会の人間と地方の人間の区別無く、放射性物質は降り注いで来ます。そのことで・・・「同じ被害」を被ることで、「原発」と言う存在が都会の人間にとっても「リアルな存在」となり、「同じ感覚」を共有できるようになったワケですよね?

 それはつまり、「同じ人間」としての存在に目覚めたということであり、即ち、


本来の人間のあり方とは?


・・・という、「自問」の始まりでもあったワケです。

 「自問」は人間が人間足る証明でもあります。「自問」の繰り返しによって人間は「進歩」して来たのではないでしょうか?デカルトは17世紀に、


我思う、ゆえに我あり。


・・・と書き記しましたが、現代では、


我は問う、ゆえに我あり。


・・・となるワケです。

 ま、ワタシはデカルトについて良く知らないんでアレですが、デカルトが言うところの「良識」とは、人間存在に根を下ろした考察である必要があると思うワケです。

 西欧・・・特にキリスト教圏において、「良識」、「理性」とは神から与えられたものであり、人間存在も、「神の創造物」以上の意味を持ち得なかったのではないか?・・・と。

 人間存在が「神の創造物」である以上、人間存在について問い直すことは「神を疑う」ことにもなり、「タブー」ともされ、神から与えられた「良識」、「理性」について探求することはあっても、人間についての探求は後回しにされてしまったのでしょう。 

 しかしワタシが思うに、先の原発事故が切欠となり、「人間の再検証」が不可欠な時代に突入したのではないでしょうか?

 「心理学」にしても「哲学」にしても何にしても、思考を司るのは「脳」であり、脳の機能を度外視して学問を語るのは不十分であると思うワケです。つまり、「思考」の道具はみんな同じものを持っているワケで、


同じ人間だろ?


・・・という「論拠」になるワケです。

 そして、そうした人間本来の機能に対する無知が「バカの壁」の原因であり、したがって「バカの壁」を超える・・・もしくは取り払うためには、


人間回帰


が必要である。・・・というのがワタシの自論なワケです。

 それは格別ムズカシイことではなく、教習所で車の運転を学ぶのと同じようなもので、アクセルとブレーキ、ハンドルのさばき方を実習するように、「脳」の各部の働きを理解することです。




 前にも書いたように、「大きなグループ」に所属して安心するのは「本能」の成せる業であり、そのグループの「正当性」とか「理性」とは関係ないトコロから生じる、「動物的な衝動」であることを自覚する時代にあるワケです。

 それが「個人革命」の一環であり、「新時代」において求められる、


新しい理性の礎


・・・になると思うワケです。

 で、最近「ポピュリズム」という単語をよく目にしますが、その意は「大衆迎合」と語られ、あまりイイ意味では語られません。恥識.・・・もとい、知識人曰く、「大衆迎合は愚かだ」という基本論調なワケですが、コレッて、


大衆は愚かだ


・・・という、「上から目線」の論調なワケですよ。でも、


本当に愚かなのはドッチなの?


・・・という時代にあるワケですよ。今わ。

 インターネットのお陰で、誰もが的確な情報に接することが可能になった現代において、いまだに「情報の囲い込み」に血道をあげ、「権威付けられた知識」=「硬直した知識」を守っているだけでは、時代遅れになるだけです。

 そうした「時代遅れの知識人」とやらが、「大衆は愚かだ!」とかエラソーに言ったところで


ナンボのもんじゃい! 


・・・といった感じで、ゼンゼン訴求力がありません。

 逆に言えば、インテリ、知識人がその「ステータス」を維持するためには、大衆は愚かであった方が都合がイイというワケです。

 であればこそのメディア操作であったり、世論操作などが行われる可能性は否めないワケですが、そうした「洗脳」に引っ掛からないためにも、


人間は人間を知る必要がある。


・・・と、クドクド繰り返してきたワケです。はい。


カンタンなことでしょ?


 さて、選挙も中盤から終盤に差し掛かると様々な「雑音」も増えてきますが、そうした「雑音」に惑わされないためにも、まずは自分と向き合うという、謂わば「心の深呼吸」をする余裕を持ちたいものですなw。




人間ナメんなよ!


でわっ!