2013年8月20日火曜日

階級と闘争と個人革命

  
 チョッと前の記事ですが、「WIRED」に興味深い記事があったので転載します。


「戦いは人間の本質ではなかった」:研究結果
2013.7.25 THU

人間のなかにある好戦的な気質が、実は比較的新しいものだと示唆する新たな研究結果が発表された。ふたりの文化人類学者は、人間における集団による暴力は異常なことであり、暴力が人間の本質に関わるとは言いがたいとしている。

TEXT BY BRANDON KEIM
PHOTO BY DOUGLAS FRY
TRANSLATION BY WATARU NAKAMURA

WIRED NEWS (US)


人類は実に長い間、激しい暴力の歴史を積み重ねてきた。戦争が人間の本質に根ざすものと考えるのは容易いことだ。しかし、人間のなかにあるそんな好戦的な気質が、実は比較的新しいものであると示唆する新たな研究結果が発表された。

この研究は、有史以前の狩猟採集社会における人間の生活に関するもので、その結果によれば、当時から人間に暴力的な面はあったものの、人が人を殺すことは激しい怒りや個人同士の確執の結果として生じたものがほとんどで、集団同士の争いから生じたものではなかったという。

文化人類学者のダグラス・フライとパトリック・ソダーバーグは、この発見について「人間が自らと異なる集団の構成員を抹殺するために徒党を組む傾向がある」という考えを否定するものと述べている。両氏の論文は米国時間18日付のScience誌最新号に掲載されている。

「ほとんどの人が戦争は古代から存在し、人間の本質に関わるものと考えている」とフライ氏は話す。「そして、そんな認識が現代社会においても大きな影響力をもっている」(フライ氏)

フライ氏とソダーバーグ氏は、考古学の記録上で人間が金属器を利用し始めた1万年ほど前から、石器の利用の始まった250万年前までの期間を対象に研究を行った。人類学では、この時期に人間の気質が形成されたと考えられており、また現在の人間への進化過程におけるさまざまな気質的要素が入り交じった時期であったとされている。

チンパンジーの争いに関する研究や、有史以前の人間の暴力を示すさまざまな考古学的証拠に基づく視点では、集団間の暴力は常に存在しており、人間の本質を映し出すものとみなされてきた。

しかし、フライ氏を含む研究者らはこうした見方が、不当にネガティヴな「科学における一種の原罪(a sort of scientific version of original sin)」であると考えているという。彼らは、人間における集団による暴力は異常なことなのであって、暴力が人間の本質に関わるとは言いがたいとしている。フライ氏も2007年の著書「Beyond War: The Human Potential for Peace」のなかで、有史以前の戦争については考古学的証拠がしばしば誤って解釈されており、狩猟採集社会の暴力についても誇張されていると記している。

フライ氏によれば、ほとんどの狩猟採集社会において殺人はまれなものだったという。また考古学的な記録の上でも、集団間の暴力は、より巨大かつ複雑で階層化が進んだ比較的現代に近い時代まで、一般的なものではなかったという。



※この翻訳は抄訳です。


 つまり、人間が本来持つ闘争本能はあくまでも個人的な本能であり、集団的闘争というものは、社会(集団)に階層が形成されるまでは非常に稀であった・・・という、レポートなワケです。

 人間の脳の階層については過去何度も述べましたが、「犬猫脳」の段階までは人間も、極私的な目的の場合にのみ、「暴力」を発動させていたワケです。



 その上層に位置する「大脳新皮質」・・・所謂「人間脳」が発達することで、私的目的以外に「暴力」を発動するようになるワケですが、一番いい例がナチスによるホロコーストです。

 「人種差別」は、全くの「知的判断」に基づくものであり、私的にも、公的にも、直接危害を加えられたワケでもないのに、「アーリア人」の方が「ユダヤ人」より優れているという「人種の階層」の思想によって、多くの「人間」を殺したワケです。


同じ人間だろ?


 「バカの壁」の究極のテーマなワケですが、「バカの壁」とは即ち、上記の研究リポートで言われている「階層」の仕切り板・・・とも言えます。「壁」というと水平方向のみ考えがちですが、


「垂直方向の壁」も存在する。


・・・ということです。

 イギリスの場合、現代においても「社会階級」が厳然と存在することがよく指摘されますが、「階級制度」が確立された社会こそが、「暴力」を生み出し易い・・・と、この「WIRED」の記事は示唆しており、それを鑑みれば、「大英帝国」による「植民地政策」の本質が見えてきます。

 イギリスに限らず、欧州のすべての王国が「植民地政策」を実施したワケですが、その心は、王制=社会階級制度を確立した彼の国々は「暴力的」であった・・・というコトです。

 ではなぜ?「社会階級制度」を持つ国々が「暴力的」になるのかといえば、「社会階級」という「利権」・・・を囲い込むことに、血道をあげるからに他なりません。

 つまり国内においての階級闘争の暴力性が、そのまま海外に向けられたのが「植民地政策」の本質だということです。ナンたって、「海賊」でさえ「貴族」になれる国ですから・・・イギリスわ。

 幸いにして日本国では、戦後制定された「日本国憲法」にて、「貴族」、「皇族」の類は特権を否定され、「天皇」にしても「象徴」としてのみ存在を認められ、「社会階級」は一切否定されています。

 したがって、「社会階級」が固定されているイギリスや他の欧州諸国に比べ、


非暴力的


・・・であると言えますが、TVなどによく姿を現す「どこぞの皇族、貴族の御曹司」だとか、「殿様の子孫」だとかは、「階級社会」を懐かしむ人たちが一定数存在することの表れなんでしょう。

 また、制度的な「階級社会」の後に、「自由主義経済」による「経済階級」が生じている事実もあります。「経済階級」とは、


利益の囲い込み


・・・であり、「より多くの利益」にありつこうとする、「人間の欲望が生み出すもの」・・・だと言えます。

 そうした欲望が暴力の発動を促すのであって、結果として、「欲望」をコントロールできない「未熟な脳」の人間ほど上昇志向・・・経済階級の上部を目指す傾向があるというコトです。

 この「囲い込み」は、ありとあらゆる局面に存在します。「経済分野」、「情報分野」、「知的分野」、「医療分野」、「安全保障分野」・・・数え上げれば切が無い・・・というか、「職業、仕事」の数だけ「囲い込み」が存在すると言えます。

 端的な例で言えば、「電力業界」が頑なに「原子力発電」にこだわるのも、「囲い込み」の心理が働くからであり、政府、各省庁、官僚も、その「囲い込み」に加担している以上、歩調を合わせる立場にあるワケです。その「囲い込み」を、日本的に言うと・・・


村社会


・・・と、なるワケですが、「囲い込み」という観点からすれば、世界中に普遍的に存在する構造だと言えます。

 で、そうした「囲い込み」が世界に「閉塞感」をもたらし、「暴力」の温床になっていることに、近年、多くの人が気付き始めてはいるのですが、他人の「囲い込み」を非難するには、先ず、自らが自らの「囲い込み」をオープンにしなければ、その言葉に説得力は生まれない・・・と、いうことです。

 キビシイようですが、「反原発」の運動をしている各団体、各人にしても、自分の利益は「囲い込み」ながら、電力会社に一方的に「囲い込み」=「原子力発電」を止めろと抗議したところで、


それはフェアじゃないでしょ?


・・・という話にもなるワケですよ。

 そうした「囲い込み」を自ら解除する勇気、「囲い込み」などしなくても共存できる「オープンな社会」こそが、「反原発運動」の目指すヴィジョンとしても必要なワケであり、同時に、日本を含めた世界における「潮流」にならない限り・・・即ち、ひとりひとりが、自分の利益の「囲い込み」に腐心している限り、


何も変わらない


・・・と、いうことであり、そうした状況をブレークスルーしたいのであれば、


個人革命


・・・は避けては通れない・・・ということを、ズッと言い続けているワケですよ。はい。






人間ナメんなよ!


でわっ!