2013年8月31日土曜日

ここにも日本とアラブの繋がりが・・・

  
 日本刀の登場と武士の世の始まりは機を同じくし、尚且つ、日本刀はアラブ刀(ダマスカス製)を原型としている・・・即ち、武士の基盤を築いたのは、アラブ地域からの渡来民である・・・というのが、ワタシの「トンデモ史観」なワケですが、その他にも、アラブと日本の古い繋がりを示すものが


鷹狩り


・・・です。


アラブの鷹狩りも日本流


2年前、「アラブの鷹狩り(ARAB FALCONRY)」という本が英国で出版された。

Arab Falconry (Revised English Edition)
£35.00


ROGER UPTON という英人の鷹狩り研究家が、アラブ首長国連邦を中心に、アラブの鷹狩りを50年以上、現地で調査して、まとめた224頁にわたる成果だ。

(中略)

アラブの鷹狩り文化は、ユーラシアの草原の鷹狩り文化とは、一線を画していることが分かった。

ある意味、日本は、アラブ系に含まれる。

前に言ったように、中国で、現存している鷹狩りは、モンゴル・トルコ系。

インドは、ムガール帝国時代の絵画を見ると、やはりモンゴル・トルコ系を示している。

(中略)

思いっきり、仮説を立ててみよう。

左手の鷹狩り文化
エジプト―アラブ~海の道~日本、朝鮮


右手の鷹狩り文化
ユーラシア草原、ペルシャ~草原の道~中国


(以下略)


 正確には、日本の鷹狩りはアラブ流・・・と、言った方が正しいのかも・・・。


日本における鷹狩


古代

日本では支配者の狩猟活動は権威の象徴的な意味を持ち、古墳時代の埴輪には手に鷹を乗せたものも存在する。日本書紀には仁徳天皇の時代(355年)には鷹狩が行われ、タカを調教する鷹甘部(たかかいべ:鷹飼部)が置かれたという記録がある。古代には鷹場が禁野として一般の出入りが制限され、天皇の鷹狩をつかさどる放鷹司(大宝令)/主鷹司(養老令)が置かれた。正倉院に放鷹司関係文書が残っており、長屋王邸跡から鷹狩に関連する木簡が出土している。平安時代には主鷹司が廃止され、蔵人所が鷹狩を管掌する。奈良時代の愛好者としては大伴家持や橘奈良麻呂が知られる。

平安時代においては、初期の桓武天皇、嵯峨天皇、光孝天皇、宇多天皇、醍醐天皇らとその子孫は鷹狩を好んだ。嵯峨天皇は鷹狩に関する漢詩を残しているほか、技術書として『新修鷹経』を編纂させている(818年)。現存する鷹狩技術のテキストとしては世界で2番目に古い。中期以降においても、一条天皇、白河天皇などの愛好者が現れたが、天皇自身よりも貴族層による鷹狩が主流となる。坂上田村麻呂、在原行平、在原業平は鷹狩の名手としても知られた。

鷹狩は文学の題材ともなり、『伊勢物語』、『源氏物語』、『今昔物語』等に鷹狩にまつわるエピソードがある。和歌の世界においては、鷹狩は「大鷹狩」と「小鷹狩」に分けられ、中世にいたるまで歌題の一つであった。「大鷹狩」は冬の歌語であり、「小鷹狩」は秋の歌語である。


 4世紀には既に鷹狩りが行われていたそうですが、鷹狩りの証拠?と思われるのは、古墳時代に作られた埴輪に見られ、飛鳥時代以前から、アラブ系の渡来民が日本に定住していたと考えられます。


群馬県太田市オクマン山古墳(6世紀後半頃)出土埴輪鷹匠


 武士の世の基礎を築いた「平家」は、ペルシャ系ではなかったのか?・・・というTVレポートもありますが、それにしても平安時代末期(1100年頃)からの話で、「鷹狩り」が既に「古墳時代後期」≒「飛鳥時代」にはアラブから伝わっていたとすると、アラブ人の日本への渡来は、イッタイどれだけ遡るのか?


古墳時代





福岡・珍敷塚古墳壁画(6世紀後半頃)



エジプトのセン・ネジェム古墳壁画(紀元前1300年頃)
(茂在寅男著『古代日本の航海術・小学館』)から


 紀元前からアラブ人が日本に渡来していた・・・という可能性も否定しませんが、古墳などの「物的証拠」から確かなことは、「平家」が武士の世の基礎を築いたとしても、それより遥か以前からアラブ系の渡来民が日本にいた痕跡が見受けられ、先の「珍敷塚古墳」が九州・福岡に存在することからも、九州地方にはアラブ系渡来民のコミュニティーが点在し、熊本の菊池氏などは「鷹の羽」を家紋とするところなどからも、アラブ系の血筋を引く氏族であったのかも知れません。


【家紋World】 鷹羽紋


・・・鷹の羽は、古来武人の象徴とされてきた。たとえば元日の節会や御即位の式などには、左右近衛の両陣に鷹の羽を掲げたといわれる。中国においては、武人は冠に鷹の羽をさすことが慣わしともされていた。鷹は俊敏で、その姿は数いる鳥のなかでも群を抜いて誇りに満ちた姿であったことから、武士の間で尊ばれた。

 また、古くより鷹狩りがスポーツとして行われ、それは武を練ることにも通じ、戦国時代では武将のたしなみの一つともされていた。このように、鷹は武士を表すものとして、紋にも取り入れられたようだ。

 「蒙古襲来絵詞」と呼ばれる絵巻が伝わっている。これは文永・弘安の役に活躍した肥後の武士、竹崎季長の戦功を描いた絵巻物で、当時の風俗、武具、旗印、家紋などが、ありし日の姿のままに見られる重要な資料である。この中に、菊池次郎武房が「二枚並び鷹の羽」をかかげて異国の敵に立ち向かっている。これが、もっとも古い鷹の羽紋の記録で、かまくら時代から用いられていたことが知られるのである。

 菊池氏は、肥後国菊池郡に住んでいた大宰少監藤原則隆から起こっている。九世紀から十一世紀の前半にかけて宗家が有力府官として活躍したとされる。そして菊池氏は阿蘇神社の氏子で、阿蘇神社の神紋である「鷹の羽」を紋として用いたようだ。もちろん、阿蘇神社の神官である阿蘇氏も鷹の羽紋を用いていた。

 こうして、鷹の羽紋は菊池氏・阿蘇氏の一族をはじめとして、武士の間に広まっていったようである。徳川氏に仕えた、西郷氏も菊池氏の一族を称し、鷹の羽紋を使用した。・・・


 ま、「鷹羽紋」アラブ系発祥であったにしろ、「武人」のシンボルとして広まり、アラブ系ではない氏族にも浸透したであろうことは想像に難くありません。

 と、ここまで書いて来てフト思い出したのが、「神武東征」の逸話です。


神武天皇


 神武天皇の東征を助けた動物は「烏」と「鳶」ですが、「烏」は道案内をしただけであり、実戦においてその力を振るったのは「鳶」です。「鳶」とは「鷹科」の鳥であり、この神話を読み解けば、アラブ系の渡来民が神武天皇に加勢したとも取れます。




 神武天皇は九州から東征を始めたという通説?を受け入れるなら、先の「菊池氏」のような九州在住のアラブ系氏族が、神武天皇に加勢することは十分考えられますし、さらに言えば、神武天皇はアラブ系の氏族と非常に親しいか、自身がアラブ系であった可能性すら浮上してきます。

 天皇制は天武天皇から始まる制度であり、それ以前の大王(大君)制とは一線を画するのです。したがって、天武天皇以前の歴史を改竄し、天皇制というものを人工的に権威づける必要性から、神武天皇の東征にアラブ系の渡来民が関わっていた・・・もしくは、神武天皇その人自身がアラブ系?であることを秘匿するために、「鷹」を「鳶」へと卑しめた?


天武天皇(673~686年)


 そしてこのことは、明治維新を迎えて「国家神道」が国策になるまで、神武天皇の墓稜は人知れず捨て置かれたという事実と、その周辺に暮らす人たちが被差別部落民であったという事実を鑑みれば、アラブ系の渡来民・・・それも、神武天皇に近しいアラブ系渡来民は、歴史の闇に葬り去られてしまった・・・と。


おおくぼまちづくり館と洞村跡地より


・・・留意しておきたいが、もともと天皇陵より前に洞村はすでに存在していた。歴史の彼方に消えていた神武陵が現在の地に比定されたのはやっと幕末の頃である。

 「畝傍山の東北陵」という書紀の記述より、近在の塚山、丸山(洞村の最上部)、神武田(じぶでん・ミサンザイともいう)の3カ所が候補地とされ、当初は塚山が比定されたがこれは後に二代綏靖陵へ変更され、結局、神武田が神武陵となったが、丸山もなお可能性が残るということで「宮」の文字を入れた石柱で囲まれ祀られていた。

 しかしこの神武田にしても、洞村の古老の話では「ここは直径10mくらいの小塚が2つ並んでいて、もともと地元では糞田(くそだ)と呼んでいた。ひょっとすると牛馬の処理場で、掘ると牛や馬の骨が出るかも」というくらいで、そもそも紀元前660年に即位して127才まで生きたなどという伝説上の人物の墓がどこにあるかなんて分かるはずもない。

 現在ではうっかりすると、二千年以上の神代の昔からあの地に鎮座していたように錯覚してしまうが、亡き住井すゑ氏がかつて言っていたようにまこと「嘘も長いことつき続ければ本当になる」のである。・・・

・・・この江戸時代にはささやかに祀られていた神武田が、俄に現在のような立派な形に整備されていくのは明治維新後であって、そこには無論、天皇制を軸とした国家権力装置としての象徴的な目論みがあったことは言うまでもない。・・・

「驚くべし。神地、聖蹟、この畝傍山は無上極点の汚辱を受けている。知るや、知らずや、政府も、人民も、平気な顔で澄ましている。事実はこうである。畝傍山の一角、しかも神武御陵に面した山脚に、御陵に面して新平民の墓がある。それが古いのではない、今現に埋葬しつつある。しかもそれが土葬で、新平民の醜骸はそのままこの神山に埋められ、霊山の中に爛れ、腐れ、そして千万世に白骨を残すのである。どだい、神山と、御陵の間に、新平民の一団を住まわせるのが、不都合この上なきに、これを許して神山の一部を埋葬地となすは、ことここに至りて言語道断なり。聖蹟図志には、この穢多村、戸数百二十と記す。五十余年にして今やほとんど倍数に達す。こんな速度で進行したら、今に霊山と、御陵の間は、穢多の家で充填され、そして醜骸は、おいおい霊山の全部を浸蝕する。」

後藤秀穂「皇陵史稿」(1913・大正2年)

・・・実際に、昭和天皇崩御の際には機動隊が村中を巡回したり、天皇が参拝のときに乗ってくる「お召し列車」の線路沿い(現在の部落に接している)に警官と近鉄の職員が立ち並んだりと、いまもこの村が権力の監視の対象となっているという話なども聞く。「ここほど天皇制を日常的に感じられる場所はない」とも。 ・・・

・・・せっかくだからと、帰りしなに神武陵も見ておくことにした。かつて「糞田」と呼ばれた小さな塚が、いまでは巨大な権力の衣を幾重にもかぶって、神々しく鎮座している。

 もちろん、それは空虚でひどく愚かしいまぼろしである。立ちつくした私の目の前で、それらの空間はたちどころに色褪せてかき消え、代わりに山のふもとの樹の間から、共同浴場の湯が沸いたと村中に告げる威勢のいい声が聞こえてくる。

 神武陵地に隠された旧洞村の静謐な跡地は、この国の闇を照らし出す貴重なスポットである。機会があったらぜひ一度、立ち寄られたい。・・・


 ま、あくまでも、ワタシの個人的推測です。推測www。





人間ナメんなよ!


でわっ!