2013年2月12日火曜日

知性と理性

    
 武田センセの論ですが、人間は「知・情・体(知・考・情・体)」の三位一体であり、所謂「左翼」のひとたちは、「知」に働きすぎるので「個人主義」に陥りやすく、「体育会系」と呼ばれるひとたちは、「情」に働きすぎるので「体罰」などを引き起こし易い・・・と、いうことらしいです。

 総論?として、「知」に働くひとは社会との連帯感を失いやすく、その結果としての孤独感から「自殺」を選択する可能性も高まり、一方、「情」に働くひとたちは連帯=群れを重んじるので、「自殺」など考えられない・・・という主旨らしいです。

 そして大切なのは、「奉仕精神(Dedication)」であると説きます。つまり、社会への積極的な参加意識を持つことで、「自殺」を考えることもなくなるだろうというワケです。・・・かね?

 生意気なようですが、ワタシはこの論には同意しかねるワケで、先ず、何度も引用した下の図を見るに・・・




 人間の脳は基本的に三層構造になっており、武田センセの仰る「知・情・体」はそれぞれ、知=大脳新皮質、情=大脳辺縁系、体=脳幹に相当すと見做せます。

 ワタシの考えでは、この三層のバランスが個人の人格を形成しており、大雑把に「文系」、「体育会系」と分けた場合、「大脳新皮質+大脳辺縁系」の働きが活発なのが「文系」のひとたちであり、「大脳辺縁系+脳幹」の働きが活発なのが「体育会系」のひとたちであると分類できます。

 さて、大脳新皮質+大脳辺縁系の組み合わせにしても、どちらの働きがより支配的であるか?によりその行動に違いが現れ、情(大脳辺縁系)に支配された状態にあると、ひとはどんな残虐なことでも平然とやってのけます。

 「狂気」と呼ばれる行為にしても、本人はいたって理路整然と、知(大脳新皮質)を総動員してそれを行うものです。そのいい例が・・・


ナチスのユダヤ人虐殺


・・・です。

 ナチスは学術的な研究成果に基づき・・・即ち「知」を総動員してユダヤ人虐殺を正当化したワケですが、その根本的な動機はユダヤ人に対する「憎悪」の感情であり、「情」が「知」を利用した一例です。

 現代の日本においても、全く同じことが行われているのです。「ムラ」、もしくは「界」と呼ばれる集団はいたる所に存在します。そして自分たちの「群れ」を守るために行動するワケですが、武田センセの論によれば、これは「情」に基づく行為であり、「群れ」に対する「奉仕行為(Dedication)」として肯定されることになります。

 したがって、「原子力村」のひとたちがお互いを助け合うのも「奉仕行為(Dedication)」として肯定され、ナチスがユダヤ人を虐殺したのも、「アーリア人」を守るための「奉仕行為(Dedication)」として肯定されてしまいます。

 ユダヤ人虐殺は「良い事」でしょうか?それとも「犯罪」でしょうか?また、原子力行政に関わる全ての関係者が、あれだけの事故がありながら誰一人として責任の所在を明確にせず、責任も取らず、お互いを庇いあう姿は「美しい」のでしょうか?それとも「醜い」のでしょうか? 

 それを「犯罪」であり、「醜悪」であると思うのであれば、「知」は時として、そうした「犯罪」や「醜悪」なるものの「下僕」として働く・・・と、いうことも理解できるハズです。それが所謂・・・


御用学者


・・・と呼ばれるひとたちであることも。

 そこでですよ、「大脳新皮質」の真髄?は「知」にあるのではなく、「理」にあるとワタシは考えるワケです。

 
人類は放射性廃棄物を処理できない。


 これは「知」の分野の現実であるワケですが、「ならばどうするか?」・・・が「理」の分野となり、処分できないゴミを生産し続けることは、


馬鹿げている。


・・・となるのが正常な「理性」であり、それに従い原子力発電は止めるのが「理性的判断」と呼べるものです。

 つまり、現在の日本の政治家・官僚・財界は「理性」を失った状態にあり、自分の群れの利益に固執し、奉仕(Dedication)し、「情」によって「知」が暴走している状態にあるワケです。





 「知・情・体」の働きを統括するのが「理」であり、「理」と「知」はイコールではないということです。「文明」が遅れているからと言って、「理性」も遅れていると考えるのは間違いだということです。「理」に従って生活することを選び、敢えて「文明化」を拒む道だってあり得るということです。 

 ナンか?「憲法」にも似ていますが、「憲法」という「幹」があり、その枝は「三権分立」と分かれ「木」の形を成していますが、その木を支えているのは「根」なワケですよ。

 これは、「脳」・「大脳新皮質」・「大脳辺縁系」・「脳幹」に対応するものであり、「根」が「理性」に対応するものとも例えられます。

 人間の人間足る理由は、「理性」により、進化した脳を統合することにあり、あらゆる動物に比べても人間が最も「醜悪」、「下劣」、「愚劣」である部分は、「情(本能)」のために「知性」を道具として使うトコロにあるワケです。

 したがって、「知性」・・・例えば「IQ」の高さを至上とする考え方は間違っており、「理性」こそが至上に置かれる必要があるのです。

 そういう意味では、TVをつけるとゴールデンタイムには「クイズ番組」が百花繚乱の状態ですが、「知」の面だけがで優越を競うような風潮は、ワタシ的には「?」な状況に見えるワケです。「理」の大切さが置き去りにされているようで・・・。

 「知」に基づく社会から、「理」に基づく社会への転換・・・これもまた「新時代」における価値観の転換であるワケで、「新時代」とは単なる旧システムの否定ではなく、


新たな価値の創造


・・・を、伴わなければ、旧時代の価値観(マント)に頑なに身を包むひとたちは、なかなか自らマントを脱ぎ去ろうとはしないワケです。早い話が・・・


北風と太陽


・・・のアレです。

 新しい価値の創造により、理性の光の温もりにより、ひとびとはやがて旧いマントを脱ぎ捨てるのだろうとワタシは思うワケです。だから現状に対する否定意見ばかり述べるのではなく、新しい価値を創造し、提示し、実践していくことが、社会変革への最短の道だろうと思う次第です。はい。





人間ナメんなよ!


でわっ!