2011年7月16日土曜日

萌千家(鹿男番外編)

 このたびの「東日本大地震」にて被災された方々にお見舞いを申し上げるとともに、災害にてお亡くなりになられた方々のご冥福を、心からお祈り申し上げます。


 「鹿男」について相変わらずダラダラと調べているのですが、何となく点と点が「線」で繋がりそうな気配です。いろんな資料をWEBで閲覧しているのですが、ワタシが知りたい利権のルーツに近づけるのではないか?と。

 そんな中でたまたま見つけた掲示板が、真偽はともかく興味深かったので、そのまま(若干読み易くしてありますが)貼り付けます。


<貼付>

茶道の歴史

1 : 日本@名無史さん : 2006/04/06(木) 03:11:48
千利休から始まる日本の伝統文化の茶道について語りましょ。

2 : 日本@名無史さん : 2006/04/06(木) 03:17:14
茶道は利休が初めではない。

村田珠光→武野紹鴎→千利休


3 : 日本@名無史さん : 2006/04/06(木) 03:21:51
1名前: そごうφ ★投稿日: 2006/04/05(水) 18:18:02 ID:???
臨済宗の僧・栄西の茶会様式も類似 作法広めた高麗遺民 朝鮮朝の拝仏政策で渡日

草庵茶室の狭小な空間に侘(わび)、寂(さび)の小宇宙を創出する日本の茶道。日本オリジナルと信じられていた千利休に至る日本茶道の確立期に、高麗時代の茶道が大きな影響を与えていた。

また、日本に中国(宋)から茶の儀礼を伝えたとされるのが臨済宗の僧・栄西だが、彼の茶会の様式も、本家の宋のスタイルより高麗の茶礼により似ている。日本茶道の発祥に高麗の茶道が深くかかわっていた事実を検証する。(吉成繁幸)

○茶会王国の高麗時代
韓半島および日本列島に茶が最初に持ち込まれたのは、ともに7世紀から8世紀頃と見られている。『三国史記』「新羅本紀」によると、善徳王の治世(632~646年)に入唐廻使が唐から茶種を持って来て、地理(智異)山に植えたという記載がある。日本でも、奈良時代(8世紀)に聖武天皇が茶をたしなんだという文書が正倉院にある。これも唐から遣唐使が持ち込んだものだろう。

その後日本では遣唐使の廃止とともに飲茶の習慣は一旦途絶え、再び日本に茶を伝えたのは、平安時代末期、宋に留学していた臨済宗の僧・栄西である。

新羅では飲茶の習慣はその後も盛んで、朝鮮史学者・三品章英氏の『新羅花郎の研究』には、「煎茶が一種の宗教的儀礼として花郎の行事に取り入れられ…」とあり、「花郎茶道」のような儀礼が存在していたことを指摘している。

高麗時代、韓国の歴史の中でも最も飲茶の風習が盛んになる。禅宗の僧侶たちにより宋で行われていた最新の茶道が伝えられ、多様な茶会が行われていた。宮中では茶礼という儀式作法が行われ、文人たちは風流を楽しむ茶俗を、禅僧たちは求道的な茶風をたしなんでいた。ちなみに高麗の茶は、新羅の煎茶に対して抹茶である。



4 : 日本@名無史さん : 2006/04/06(木) 03:23:45
栄西が日本に茶を伝える半世紀ほど前、高麗を訪れた宋の使節の日記(『高麗図経』)に、高麗の茶会を記録した部分がある。

そこでは、「高麗式作法では暖かい茶が飲めない、中国にはない1日3回の供茶を行い、茶をとしてありがたがっているだけだ」など、侮蔑的表現で高麗の茶会は宋のものとは似て非なるものだと述べている。ところがこの高麗の作法が、栄西が宋から日本に伝えたとしている茶会の作法に非常によく似ているのだ。

京都五山のひとつ、臨済宗・建仁寺では、栄西の誕生日の4月20日に四頭茶礼という茶会が開かれる。これは14世紀末(室町時代中頃)に書かれた『喫茶往来』という本の記述通りにとり行うもので、栄西の往年の作法をよく伝えているとされている。『喫茶往来』の様式は後に千利休が確立した茶会の様式にも強い影響を与えており、日本茶道の原点というべきものである。

詳細は省くが、茶道具の使用法、茶に対する考え方、茶の飲み方(3回の供茶など)が『高麗図経』に書かれている高麗式作法とそっくりなのである。

栄西は、宋から直接に帰国したのではなく、帰路に高麗に立ち寄り、高麗式作法を日本に伝えた可能性も十分に考えられる。



5 : 日本@名無史さん : 2006/04/06(木) 03:24:30

○商人だった千利休
朝鮮朝が成立すると、政府の排仏政策の影響を受け、多数の僧侶や高官、文化人らが追放された。その頃、日本では室町幕府の支配力が弱まり、各地の守護大名が力をつけ始めていた。特に西国の大内氏は非常に大きな存在だった。領土は中国地方の大部分と北九州(貿易都市・博多を含む)に及び、もう一つの貿易都市・堺も支配していた。

大内氏は朝鮮朝との貿易をほぼ独占し、追放された多数の高麗遺民が大内氏を頼って来日していた事実がある。大部分は僧侶や高官、文化人である。今も博多や堺には高麗町が残っているが、そこは彼らの居住地の名残りである。

彼らは祖国の茶会を貿易都市に持ち込み、貿易の当事者である商人にその作法が広まっていった。後に日本の茶道を確立した千利休が武士でも貴族でも農民でもなく、堺の商人であったことには必然的な理由があったのだ。

(2006.4.5 民団新聞)
ttp://mindan.org/shinbun/news_bk_view.php?page=1&subpage=1178&corner=6
前スレ:立った時刻・2006/04/05(水) 13:00:36
ttp://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1144209636/
優雅な所作の韓国茶道
http://www.mindan.org/upload/443321e7b040a.jpg
韓国茶道・伝統礼節協会日本東京支部長の李瑛子さんによる茶会でのお点前
ttp://www.mindan.org/upload/443321e7b0bd3.jpg

・・・・・というわけで村田とか武野なんとかの出番はない。


6 : 日本@名無史さん : 2006/04/06(木) 03:26:32
朝鮮マンセースレなら板違いだな。


7 : 日本@名無史さん : 2006/04/06(木) 04:44:01
茶の湯な


8 : 日本@名無史さん : 2006/04/06(木) 07:17:05
文献より代々
相承されて来たことが大事なんだよ。


9 : 日本@名無史さん : 2006/04/06(木) 13:56:29
そうそう 文献なんてあとで捏造できるしね。
韓国にも茶道があったんだろうな。
それを千利休がひきついだ形になってるけど。


10 : 日本@名無史さん : 2006/04/06(木) 19:51:29
韓国にも茶道があるんですね
もっと知りたいな


11 : 日本@名無史さん : 2006/04/10(月) 11:42:07
高麗茶道って2004年に在日が発見したとかいう奴?


12 : 日本@名無史さん : 2006/05/09(火) 03:33:06
あたごした


13 : 日本@名無史さん : 2006/05/09(火) 18:43:26
室町時代に西国の大々名・大内氏に庇護された博多商人と上方の大々名・細川氏を後ろ盾にした堺商人お互いに対抗してた史実があまり語られてないな?

それが次の時代で天下人秀吉の朝鮮征伐に対して基本的に賛成の博多商人vs基本的に反対の堺商人という対立構図になりあの国にも無縁の話では無いんだけど
その辺をボカしていきなり千利休在日説だとか大内氏が堺を支配してたとか説くなよ(一時的に上方にも君臨したが)。

ちなみに博多商人の後援者たる大内氏は百済王家の末裔を自称してたがそれを理由に百済旧領の割譲を李氏朝鮮に要請してる。

後に博多商人は一部例外を除き朝鮮征伐に賛成したがその一因として堺商人・千利休よりも遥かに大内氏の薫陶を受けてたからでは?(もちろん損得勘定が主な理由だろうが)


14 : 日本@名無史さん : 2006/06/16(金) 00:13:27
中国からか


15 : 日本@名無史さん : 2006/06/16(金) 22:34:10
>>5
すげーなぁ。
歴史学者が聞いたら寒気がするような事を真顔で書いてるて感じだ。


16 : 利休の残党 : 2006/06/16(金) 22:43:00
今でも岡山から広島地方へゆくと、「ちゃせん」「ささら(竹作り)」とよ ぶ橋のない川の区域がある。ご想像つくと思うが、弾圧され隔離された利休の残党である。

その後、彼らがなんとか体制側にとり入ろうとして、御用や牢役人をやっていたのは、幕末の詩人菅茶人の旅行記にもくわしい。




17 : ササラ : 2006/06/16(金) 22:48:57
千の宗易こと俗に言う利休の自決後、その木像を八付にかけた後、その一味のササラ衆を部落に追い込んだのが茶せん部落で、華やかな茶の湯とは裏はら。



18 : 八付 : 2006/06/16(金) 22:51:58
「ハリツケ」といって木へくくりつけ殺すのでも、縄でくくりつけて槍でブスッと一気に仕止めるのは、「張付」というが、「手足を五寸釘でうちつけ、採取した昆虫のようにピン止めにして、カラスがつつくにまかせ、放っておいてじわじわ殺す」のは、「八付」という。千宗易が戻橋で殺された時は、木像が身代りに釘づけだったから、「八付なり」と仙台鈴木文書の記録にある。



19 : ただみたいな竹で作った物を高値に売り : 2006/06/17(土) 12:34:23
足利時代から卓を囲んでの茶は、中国渡来の唐茶で、道具類もみな明国の舶来品に限られていた。

それなのに、堺の皮屋松屋らが始めだした新しい茶湯を、千の宗易が引き継ぐに当たって「ささら衆」と呼ばれるヤ衆の者らに、竹細工で茶筅、なつめ、花挿し、まで作らせて売り捌きもした。

だから茶道具商売の者らが、「ただみたいな竹で作った物を高値に売りおっが、死ねば儲けもふい、利は休みじゃろう」と冷やかして死後に付けた渾名らしく、「名利共休」とか「名利頓休」等と苦し紛れの引用もされるが、これらはみなこじつけにすぎない。


20 : 茶道具で儲ける商売人 : 2006/06/17(土) 12:36:07
世界に比類なき宗教的とも言える日本独特の家元制度。
それは茶道具で儲ける商売人や、その御抱え歴史屋が結託して、
勝手に虚像を開祖にして神聖化しているだけの話しである。


21 : 部落民 : 2006/06/17(土) 17:32:23
「児島郡郷内村林にては、二季の彼岸にシキミを各家に持参して戸口又は軒頭に掲げて、志しの米銭や盆の内にのせられたものを受く

「都窪郡加茂村大新庄字岩崎にても、二季の彼岸にシキミを各自にて持参して米や銭を受く

「同郡庄村下庄にては、年頭に夷・大黒を配札し、彼岸・中元にはシキミを届ける」

「吉備郡穂井村大字陶字東山、後月郡木之子村岩ヵ市にては、シキミ茶せんを各家の軒頭に掲げて札として米や銭を受く

と、千の宗易こと利休の残党が部落民にされていたことをとく。



22 : 茶柱博奕 : 2006/06/17(土) 17:36:08
足利期では「書見台子」などと勿体ぶっても、しょせんは賭奕、蓋をとって茶柱が立っているのが勝ちという賭茶。各寺で開帳して一割づつの布施をとったのが,バクチの寺銭の起源。そして、『花園天皇記』『師守記』にもあるし、『看聞御記』には、親王さまが一茶やるべえとギャンブル通いをなさった記載さえある。今日の「イッチョヤルベエ」の語源である。

が、庶民は寺へ入って賭けられぬから門前の店で丁半ならぬ茶柱博奕をやった。つまり腰掛けるから掛け茶屋となったのは後年で、賭け茶屋が起りである。

これに対して神祗側でも、儲かるならと、赤い唐茶は仏教側ゆえ青茶を考案して、その混合がトガノオ産と他との割合を当てさせる「本非」とか「四種十服の勝負」といったのを始めたが、寺側のように固定客層がいないから、八坂神社あたりは弦召とよばれる下人が客引きに加茂川べりまで出かけた。

これが今日でも使われるポン引きの語源だし、加茂で拾ってくるゆえ、「カモ」と上客をよぶのも今なお残っている。


23 : 儲けるためには真実の歴史は何もない : 2006/06/17(土) 17:39:31
寺の都と呼ばれる程、京では各宗の寺が多い。観光バス廻りの現代では、石庭とか山門や色んな見せ物で拝観料をとって収益をあげる。

しかし昔は、暇にまかせて筆のたつ坊さんが、もっともらしい由緒書を作ったり、空地に有名人の墓をたてて檀家や参詣人の布施を狙った。


仏教嫌いで、武田攻めでは生きながら僧侶をみな殺しにしたり、竹生島で寺詣りをした待女たちを憤り並べて手打ちにし、「終生、復興まかりならぬ」と比叡山では僧俗一人残らず全山の者を殺掠した信長の墓が、京花園妙心寺にあるのでびっくりしたが、観光客呼び寄せに、座頭市の墓を笠間にたてるのと同じで、儲けるためには真実の歴史は何もないのが日本人の国民性であるらしい。


24 : 心ある歴史家は問題にもしていない : 2006/06/17(土) 17:41:02
茶せん髷をたてた信長が仏教嫌いであったように、利休こと理休も反仏であったことは間違いない。

となると、各寺にある利休関係の由緒書は、いくら国学院教授のお墨付きでも真偽は問えない。

だから茶人に尊重される<南方録>のごときは、常識をもってみるなら噴飯ものである。

「茶湯」を由緒あるものにするための、その途ではバイブル扱いであるのは、道具の型録にコジつけだけ。

よって本当に心ある歴史家は問題にもしていない。


25 : 非衛生的であると外人には嫌われる : 2006/06/17(土) 17:42:36
コーヒーや紅茶と違って、泡消化器や粉石鹸に入れる泡の原料のポエムや硫酸ナトリウムの加工物を入れる抹茶は、非衛生的であると外人には嫌われる。

日本に来て活花を習うのはいても、抹茶をやるのは絶無である。



26 : 茶湯の起源 : 2006/06/17(土) 18:23:14
茶湯の起源は、今いうような高尚なものではなく、初めは賭奕。後には忠誠心テスト用で、現代では花嫁修行と恰好よくなっている。

硬質陶器のノリタケチャイナが出来たのは明治になってからで、ただ土をこねたきりの信長や秀吉の頃の茶碗が、地震国の日本にも多く残っているというのは眉つばものだが、道具商とか御用歴史屋が各派の家元と組んで、もりたてて今日に至っているのである。

日本では歴史は真実を追究するものではなく儲けの道具。



27 : 近年偽書であることが確実となった『南方録』 : 2006/06/17(土) 18:24:20
『南方録』(なんぽうろく)は、博多の立花家に千利休の秘伝書として伝わった古文書である。

研究者の間で高い評価を得ていたことから、重要資料として現在の「わび茶」の概念の形成に大きな影響を与えた。

近年偽書であることが確実となった。



28 : 千利休 : 2006/06/17(土) 18:25:46
千利休
家は洩らぬ程、食事は飢えぬ程にて、足る事なり



29 : 吉良上野介 : 2006/06/17(土) 18:27:50
吉良上野介といえば芝居の仇役だが、今日の茶湯を考えたのは彼である。

千宗恩の連れ子の少庵が跡目をつぎ、その子の宗旦、宗佐と続いたが、仏教を国教にと神仏混合令をだして徳川綱吉の代になると、反仏派の千家では困る。

そこで後西帝を退位させ幽閉した時に京の公家達へ、妻三姫の実家上杉家の金をまいて人気のある彼へ、柳沢吉保が体制側の茶道を作らせた。

それまでは青茶だけを服用するのだったのを、甘味を初めに口中へ入れて胃壁に防幕を作り、ゆっくり三口半に啜って、残りの甘味を胃へ送りこんで中和させるという、絶対安全な喫し方を考案したのも吉良だし、千宗易の血統という千宗室を探してきて、今日の裏千家を創立させたのも上野介である。


30 : ワビ、サビの由来 : 2006/06/17(土) 18:37:36
ワビ、サビの茶として権威あるものとされる。が、虐げられ続けた原住民が、悪党と罵られながらも武者働きして、一城の主になったり、商人として成功し、店の一つも持てる身分となった。

祖父や曾祖父の頃までは山間僻地で苦労してきた、その頃を忘れぬように反省し互いに協力し励まし合うため、侘びしく静かな、先祖を偲ぶ寂しい茶湯。

この精神がワビ、サビの由来である


31 : 忠誠テスト : 2006/06/17(土) 18:40:28
戦国の世である。

かっては忠誠を誓い、長子新五郎に信長の重臣明智光秀の長女を貰い受けた荒木村重でさえ、美童の万見仙千代を信長が奪ったとなると、叛乱してくる時勢である。

「いくら血判を押させたり、神祇誓文を呑ませても口先だけの忠誠など信用 できぬ」と信長は茶室から逃げ出さぬようにし「にじり口」と呼ぶ狭い出入り口を考案して、忠誠を申し出て来る者らを集めると、「わしが点てる青茶を服すがよい」と試験をするのに応用した。


32 : 死の儀式 : 2006/06/17(土) 18:43:10
古今東西木の葉は植物で、茶の葉も摘んで干して日が経てば枯れて黒ずむものである。

だから眼前の青茶を見て(銅鍋にわく緑青でも混ぜなくてはこう青黒くなるものではない。

うかつに一気に飲みほしたら腹が痛み出しておっつけ死ぬかもしれんぞよ)と皆怖じ気を震い、ゆっくり三口にも四口にも分けて服用した。

つまり茶席が今も厳粛なのは、死の儀式でもあったからである。


33 : 「秀吉と利休」 野上弥生子  : 2006/06/17(土) 19:00:23
あるとき利休が宴席でふと漏らした「唐御陣が明智討ちのようにいけばでしょうが」の言葉を、日ごろ利休の存在を快く思っていなかった石田光成は、朝鮮出兵に反対する傲慢な意見として、これを咎めだての材料にと考える。



34 : 「本覚坊遺文」 井上靖 : 2006/06/17(土) 19:08:28
利休師匠が自刃してからというもの、主人公の本覚坊は茶の湯の表舞台から引き下がり、修学院の奥地でひっそりと暮す毎日なのである。

それは今だに利休の死を受け入れられなくて、師にゆかりのある人々との関わりも疎ましく感じるせいでもある。

利休が秀吉に自害を命じられたということにはいろいろな噂があって、「茶の湯の第一人者として、秀吉にいたれりつくせりしてもらった恩に対して調子に乗り過ぎた」「大徳寺の山門事件(利休像を大徳寺の山門に置いた事件。実際は弟子の1人の仕業のようだ)」

「茶器の売買問題(茶器を高値で売り付けた事件。なんつっても、侘数寄の価値はわかる人にしかわかりませんし‥)」

「秀吉の朝鮮半島出兵に反対する人と通 じているという噂」などなど、

結局は茶匠として力を持ち過ぎたことが原因で、自害へおいこまれたのではないか、というのが有力説。


35 : 「利休殺しの雨が降る」 八切止夫 : 2006/06/17(土) 19:18:29
資力や人望からみても、レジスタンスの指導者利休こと宗易が反乱軍に担がれるものと秀吉は見たから殺したのだし、妻の宗恩が蛇責めの拷問で死んだのも、今で言う地下組織を白状させようためではなかったかと


36 : 吉良上野介 : 2006/06/17(土) 19:23:01
まだ知らぬ人も多いが、「茶」ではなく抹消の「抹」をつける抹茶に関しては今でも厳然として吉良に権利があって、「転茶」とか「天茶」と称する混合する為の製品は、現代でも三州の愛知県西尾町吉良が出荷権を握っていて、各地の茶問屋は吉良から仕入れねばならぬ不文律が業界では定まっている。
 
なにも吉良上野介が生前に善政をしいたから三河では「忠臣蔵」の芝居を上演させないのではなく、現代でも抹茶の利益で儲かっているから吉良さまさまなのである。


37 : 日本@名無史さん : 2006/06/18(日) 10:55:53
空想?


38 : 日本@名無史さん : 2006/06/18(日) 11:20:57
八切信者のコピペウザイ。


ttp://www.rekishi.info/library/yagiri/scrn2.cgi?n=1006


39 : 日本@名無史さん : 2006/06/29(木) 21:39:26
本当だな


40 : 日本@名無史さん : 2006/06/29(木) 21:50:38
>>1
利休から始まるなどと書いている時点でダメだよw


41 : 日本@名無史さん : 2006/07/09(日) 13:31:14
だな


42 : 茶道の歴史 : 2006/08/10(木) 19:41:49
茶を飲む習慣と茶の製法は平安時代に遣唐使によってもたらされた。当時の茶は現代の烏龍茶に似た半発酵茶で、必要量のみを煎じて飲んだと考えられている。しかし、当時は根付かず喫茶は廃れてしまった。

鎌倉時代に、日本に禅宗を伝えた栄西や道元によってとして持ち込まれた抹茶が、禅宗の広まりと共に精神修養的な要素を強めて広がっていった。さらに茶の栽培が普及すると茶を飲む習慣が一般に普及していった。

室町時代においては、飲んだ水の産地を当てる闘水という遊戯から、闘茶という、飲んだ茶の銘柄を当てる一種の博打が流行した。また、本場中国の茶器「唐物」がもてはやされ、大金を使って蒐集し、これを使用して盛大な茶会を催すことが大名の間で流行した(これを「唐物数寄」と呼ぶ)。

これに対し、村田珠光が茶会での博打や飲酒を禁止し、亭主と客との精神交流を重視する茶会のあり方を説いた。

これがわび茶の源流と成っていく。


43 : 茶道の歴史 : 2006/08/10(木) 19:42:35
わび茶はその後、堺の町衆である武野紹鴎、その弟子の千利休によって安土桃山時代に完成されるに至った。

利休のわび茶は武士階層にも広まり、蒲生氏郷、細川三斎、牧村兵部、瀬田掃部、古田織部、芝山監物、高山右近ら利休七哲と呼ばれる弟子たちを生んでいく。さらにはわび茶から発展し、小堀遠州、片桐石州、織田有楽ら流派をなす大名も現われた。

現代では特に武家茶道と呼んで区別する場合もある。


44 : 岡倉天心 : 2006/08/25(金) 18:47:56
アメリカのボストン美術館に迎えられていた岡倉天心は、東洋の小国を外国人にも理解してもらおうと「THE BOOK OF TEA」を明治39年英文で刊行しました。茶を中心とした日本の文化と、日本人の美意識と精神を説いたこの書物は、今も広く読まれています。



45 : 日本@名無史さん : 2006/10/09(月) 01:23:26
>>3-5
つまり、高麗時代まであった半島文化は李朝で一気に荒廃した。

日本の茶は
薬→お遊び→教養
か。


46 : 日本@名無史さん : 2006/10/22(日) 19:28:14
つまり知的趣味って事だね


47 : 流派 : 2006/11/05(日) 14:38:05
茶道界には流派が如何ほどあるかご存じであろうか。流派・家元を名乗るのは自由であるから、きっと無数にあるのだろう。

嘘八百並べて自分で勝手に流派を作り、講演までして嘘がばれ、詐欺で捕まりそうになった自称家元もネットの中では有名である。

未だに「侘び茶に流派など入らない」といって、我流を通すバカもいれば、かってに宗名なのる強者もいる。

利休から受け継ぐ流派と我々の耳に入りにくい流派でも歴史ある流派がいくつかあるので紹介する。



48 : 流派 : 2006/11/05(日) 14:39:33
表千家
裏千家
武者小路千家
藪内宗家
遠州茶道宗家
小堀遠州流
遠州流別家
林義牧派遠州流
玉川遠州流
茶道宗偏流山田家
宗偏流時習軒
宗偏流四方庵
宗偏流正伝庵
松尾家
久田家高倉
久田流
堀内家
大日本茶道学会
三谷流
速水流
江戸千家宗雪
江戸千家閑雪
江戸千家渭白流
表千家不白流
表千家都流
都千家
宗旦古流
不白石塚流
千家表流不白派
表千家不白流宗家



49 : 流派 : 2006/11/05(日) 14:41:00
石州流茶道宗家
石州流伊佐派
茶道石州流宗家
古石州流
石州流片桐宗猿派
石州流清水派
石州怡渓流
石州流嘉順派
石州流野村派
石州流野村休盛派
石州流大口派
石州流茶道宗猿系
石州流不昧派
石州流不昧派風声会
石州土佐清水派
石州流宗元
不昧流
鎮信流
豊田家
志野流
庸軒流藤村正員派
庸軒流宗積諦観派
庸軒流宗積中軒派
庸軒流近藤柳可派



50 : 流派 : 2006/11/05(日) 14:42:22
上田宗箇流
宗和流
御所流
有楽流宗家
有楽派実相
有楽流
貞置流
御家流
織部流
織部流扶桑派
三斎流
細川三斎派
茶道珠光流
武野綜宗家
茶道南坊流
小笠原流
小笠原家茶道古流
茶道古市古流
小笠原流茶道静泰古流
熊本古流古市家
熊本古流小堀家
熊本古流萱野家
細川御流
南方流
利休流



51 : 日本@名無史さん : 2006/11/14(火) 01:28:02
啓草社が茶湯手帳を来期以降発行しないらしいよ。


52 : 日本@名無史さん : 2006/11/14(火) 11:14:50
いらね


53 : 日本@名無史さん : 2006/11/14(火) 16:55:07
都千家 w


54 : 日本@名無史さん : 2006/11/15(水) 04:08:05
朝鮮から茶道が日本に伝えられた時期は室町後期と見ていいかな


55 : 日本@名無史さん : 2006/11/15(水) 10:17:02
秀吉が奪ったみたいなのでそれは間違い


56 : 日本@名無史さん : 2007/01/20(土) 02:38:37
いや正しいよ


57 : 日本@名無史さん : 2007/01/24(水) 22:37:29
87 :マンセー名無しさん:2005/10/08(土) 02:47:43 ID:KDfVcHPI
外国の市長たちの茶道体験  記事入力 : 2004/06/15
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2004/06/15/20040615000037.html
> 15日から3日間、江原(カンウォン)道・江陵(カンヌン)で開かれた
> 国際市長団会議の参加者が鏡浦台(キョンポデ)の東屋で茶道を体験している。


http://japanese.chosun.com/site/data/img_dir/2004/06/15/200406150000371top.jpg

これ、ただ単にお茶会を開いてるだけにしか見えない。

頼むから「茶道」という言葉を使うのは、もうやめてくれ・・。


58 : 日本@名無史さん : 2007/01/24(水) 22:48:30
日式茶道って百済からのパクリーだよ
もう認めるほうがいいと思う日式はオリジンではないさ


59 : 日本@名無史さん : 2007/01/25(木) 01:39:21
http://www5.ocn.ne.jp/~torikai/church-etc/mametisiki/christianity023.htm
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%C3%E3%C6%BB%A1%A1%A5%AD%A5%EA%A5%B7%A5%BF%A5%F3&fr=top_v2&tid=top_v2&ei=euc-jp&search.x=1

千という字を分解すれば、十字架の利休さん。



60 : 日本@名無史さん : 2007/03/07(水) 22:03:04
利休自刃の後、妻の宗恩は「蛇責め」の拷問によって悶絶死、とある

すごい時代だったんだね

ちなみに柳宗悦の文献には、茶の湯を生業として華美なものにし、禅思想から著しく離れた大本として利休を堕落の始まりと説いている。

特に道楽によって意図的にゆがめて作らせた楽茶碗を禅思想から離れた邪道とし、織部に至っては、ゆがめられた茶道をさらに発展させ、今日の堕落の原因を作ったと。

生け花にしろ茶にしろ、女の花嫁修行の手慰みとした原因がすでにここにある、と。

やはり正式に茶の湯を理解すると、禅思想抜きにはありえない。

名物にしろ、初期の無名のものの中に新たな美を発見するのが美意識であるのに対し、先人によって選ばれたという箔がないと賞賛しない眼力のない「師承」によって型だけが歪んで伝承された、と。

第一、代々家元が世襲性という封建制度をとっているのが何よりの愚の骨頂であるとし、生け花にせよ、こうした歪んだ現代の茶道は本来のものではない、としている。


61 : 日本@名無史さん : 2007/03/07(水) 22:27:11
裏千家や表千家 立派な家です。


62 : 日本@名無史さん : 2007/03/08(木) 01:09:43
>>61
優れた眼力の持ち主の子孫が必ずしも優れた愛弟子よりも確かか?
それにも拘わらず代々世襲性というシステムがおかしい、というもの。
会社や国家と考えればわかりやすいんじゃない?
道は個人や家族のものではない、というね。
私も真の茶道を思えば柳宗悦の意見に同意する。
ま、それで成り立ってるのが今の茶道であるならば、きれい寂びをも越えた
現状のお師承サマと弟子の寄り合い豪華金粉主義には興味わかないなぁ。


63 : 日本@名無史さん : 2007/03/11(日) 21:10:47
どうでも良いけど、裏千家は覚えること多くて大変


64 : 日本@名無史さん : 2007/03/14(水) 04:18:04
茶道の家を新しく起こして良いのかな
萌千家とか

</貼付>


長々と貼付けましたが、面白かったでしょ?「茶の世界」もやっぱり「村社会」なんだろうなmmm。「歌舞伎の世界」と一緒で。そんな中のひとつに「原発村」もある。・・・と。


でわっ!