2011年7月30日土曜日

日本人(倭人)の倫理

 このたびの「東日本大地震」にて被災された方々にお見舞いを申し上げるとともに、災害にてお亡くなりになられた方々のご冥福を、心からお祈り申し上げます。


 相変わらずウダウダと「鹿男」に拘り続けているワケですが、その理由は理由は既に述べたとおりです。そして、「天知天皇」「天武天皇」「藤原鎌足」「藤原不比等」の実像に迫ることで、今日の日本社会が抱える問題の本質が見えてくると、勝手に思い込んでいる次第です。はい。

 そんな中、元外務官僚の天木氏のBLOGにて気になる一節を目にしたもので・・・


天木直人のブログ
政治思想史家・藤田省三の言葉と菅直人の広島演説

<抜粋>

 戦後の政治思想家を代表する丸山眞男の弟子に藤田省三という人がいる。

その藤田氏の言葉の中に次のような趣旨の言葉があるという。

・・・動物は遺伝的にプログラムされているので、してはならないことはしない。しかし人間は放って置くとしてはならないことをするから「内側からのブレイキ」として「倫理」が必要である。倫理的ブレイキとは何か。基礎は反省能力、自己批判能力である。そしてこの自己批判能力を一番欠いている国民は、僕の知っている限りでは、日本国民をおいてない。あるのは「自己愛」、つまりナルシズムだ。この「自己愛」こそ結果として「国家主義」、「会社人間」を生む・・・

<中略>

世界を見渡せばどの国も問題を抱えている。中国も米国も欧州も、あの平和と思われていたノルウェーでさえも、いま国を揺るがす大問題に直面して苦しんでいる。

</抜粋>


 まあ、有名な政治思想家のお弟子さんが・・・

「倫理的ブレイキとは何か。基礎は反省能力、自己批判能力である。そしてこの自己批判能力を一番欠いている国民は、僕の知っている限りでは、日本国民をおいてない。」

・・・と、言ったらしいのですが、当の本人は「自己批判能力」とか、「反省能力」とか、「倫理的ブレイキ」とやらの、何を解っているというんですかねえ?アレですか?欧米の偉い哲学者がカクカクシカジカ・・・と、講釈を垂れればそれで済むとお考えなのでしょうか?

 「倫理」とは普遍的なものでしょうか?違います。世界中の国、世界中の民族、ヘタしたら同じ町内のお隣同士でさえ違うかも知れません。大きな目で見ればみな同じ人間ですから、どんな民族であれ、最低限「モーセの十戒」程度あれば事足りるでしょう。

 しかしそれ以外の生活全般に纏わる倫理観となると、様々な環境の違いに左右されバラバラになって当然です。実例をあげれば、少し前まではアメリカでは、「銃」を所持することは何ら倫理的に問題はありませんでした。で、日本はどうです?「銃」の所有は法律で厳しく制限されています。「法律」とは何でしょう?「倫理観」の延長でしょ?

 国ごとに法律が違うということは、
 国ごとに倫理観も違うということ。

 そこでですよ?では、「倫理」とか「倫理観」は何によって培われるかといえば、「教育」です。それは学校で教え込まれるものもありますが、もっと広い意味では、社会全体が持っている倫理観を脈々と受け継いで来た結果でもあります。

 つまり、歴史が倫理を育んで来たとワタシは考えます。先の太平洋戦争に何故日本が突入してしまったのか?陸軍がどうの、海軍がどうの、メディアがどうのとアレコレ分析されていますが、答えは・・・

 間違った歴史を教え込まれた。

 間違った歴史を植えつけられたが故に倫理も捻じ曲げられ、「倫理のブレエキ」そのものが役立たずになってしまったからです。そして現在もなお、先の太平洋戦争の総括が十分になされていない現代の状況では、日本人全体の「倫理のブレエキ」は相変わらず狂ったままだと言えます。

 そこでワタシは歴史に拘るワケです。はい。政治思想?だの、政治哲学?だの、

自分の足元を見てから語れ!

と、ワタシは言ひたいワケです。・・・はい。


でわっ!