2011年7月28日木曜日

権威とは何か?

 このたびの「東日本大地震」にて被災された方々にお見舞いを申し上げるとともに、災害にてお亡くなりになられた方々のご冥福を、心からお祈り申し上げます。


 以前、「茶道」の始まりを紹介しましたが、「茶の湯」はもともと「部落民」が始めた文化?であり、現在見られるような「教養」だの、「礼節」だの、「侘びさび」だのいうものは、殆どが後から付けられた「虚飾」であることが読み取れます。その「虚飾」がいつの間にか「権威」に摩り替えられ、いまで言う「カルト宗教」の如き存在になったワケです。「教祖=家元」、「信者=弟子」という同質の体系上にあり、さすがに路上で信者の勧誘まではしませんが、「布教活動=文化活動」と見れば、両者の間に差はありません。

 同じ様なことは、日本における殆どの「伝統文化」についても言えますし、ここ最近の解りやすい例で言えば、「マンガ」や「アニメ」も同じ道を辿っているといえるでしょう。おそらく現在40代以上の方は子供の頃、「ジャンプ」だの「マガジン」だのを読んでいて、親に「マンガばがり見てないで勉強しろ!」と小言を言われたことはあっても、「マンガ読んでるなんて偉いねえmmm。」と褒められたことはないでしょう。それが今やどうです?

 某総理大臣は、マンガを「日本の国家戦略」だと言い、NHKですら、マンガやアニメを「クールジャパン」だとか言って持ち上げ、いつの間にか「茶道」、「歌舞伎」なみに、「日本文化」だと公言して憚りません。そのうち文科省の下にマンガ庁でも新設されるんじゃないか?という勢いです。随分と「マンガ」も、「権威」を与えられたものですなあ・・・。

 ワタシはへそ曲がりなモンでね?そんな、国から保護され、権威付けられたマンガには魅力を感じません。国に・・・所謂「体制側」に庇護され、保護された文化なんて、ハヤイ話が「プロパガンダ」の手先に成り下がるだけ。・・・としか思えないからです。親の目を盗んでまで見た「マンガ」の、あの、「高揚感」。そこにはある種「レジスタンス」に身を投じるにも似た高揚感がありました。それは、「親の言うことよりも、マンガの主人公の言うことの方が正しいんじゃなイカ?」という、価値観の逆転を感じるスリルだったのかも知れません。


真っ白に燃え尽きたぜ・・・。


 そう生きること・・・破滅を自ら望んだ「矢吹ジョー」は、高度成長に浮かれる日本社会に「反旗」を翻した「レジスタンス」でした。「カウンター・カルチャー」の申し子でした。「権威」など無縁の存在でした。そしてそれは、「漫画家」の精神の表れであったとも思うのです。

 それがどうですか?ええっ!?「日本文化」などとチヤホヤされていますが、「カネ」になるから・・・外貨を稼ぐ輸出商品として有望だから、国としても後押ししているワケでしょ?チガウの?最近のマンガ家は日本経済の心配までして、作品作りしているワケ?スゴイなあmmm。マンガが「カウンター・カルチャー」としての存在場所を失ったとき・・・


マンガは死んだ。


・・・と、ワタシは考えます。

 で、まとめ?ると、人は自分の行為の裏づけを求めます。


自分は本当にこれでイイのか?


・・・と。そこで自分に自信がもてない場合(ワタシも含め殆どの人がそうでしょが)、外部に裏付けを求めたくなります。それは親の意見であったり、先生の意見であったり、友達の意見であったり、社会常識と呼ばれるものであったり・・・。で、その一環として最強?なのが、「権威」を手に入れることではなイカ?・・・と。

 しかし、「権威」は常に「時の権力」とセットであり、権力機構に寄り添っていなければなりません。もしマンガやマンガ家がそのような立場を好しとするのであれば、ワタシが少年の頃読み漁ったマンガとは、全く別な存在になってしまったと思うしかありません。そこに「夢」や「希望」が描かれていたとしても、きっとそれは、「権力者」によって用意された「プロパガンダ」としか思えないからです。


自分は本当にこれでイイのか?


 今の若者も昔の若者も、悩むことは一緒です。ただ、安易に「権威」などの、外部に答えを求めるのは止め、トコトン自分自身の答えを求めるのもアリなんじゃないでしょうか?それは苦しいことなのですが、真の意味での「道」とか、「求道」とかは、本来、「権威」などとは無縁の孤独な道のように思う次第です。はい。そしてそれは、「権威という毒」に染まっていない、「若者の特権」のようにも思った次第です。
 
 
でわっ!