2011年2月27日日曜日

選択と行動

 前回の話の続きになるのですが、ワタシたちの人生は、「運命」と「自由意志」の狭間をウロウロしているワケで、身近なところで例を挙げると、「選挙」も「運命」のひとつと見做せます。

 では何故?選挙が「運命」と見做せるかと言うと、ぶっちゃけワタシたち庶民は自分の仕事、日々いかに生活の糧を得るかが最優先課題で、「政治」なんてメンドウクサイ事に関わっている暇は無いワケです。・・・よね?

 しかしながら、生活の場である「社会」はワタシたちの「共通財産」であり、その財産・・・例えば教育であったり、例えば医療であったり、例えば道路であったりする、所謂、社会的なインフラの「管理者」がどうしても必要になります。で、どうしても必要になるということは、「自由意志」ではなく必然=「運命」とも考えられるからです。

 個人の「自由意志」を貫くということは、「社会」の存続を危うくすることにも繋がり、「社会」の存続を望むのであれば、「管理者」を置かなければなりません。つまり「選挙」はワタシたちにとっては、「社会」を維持する為の、ひとつの「運命」であると考えられますし、選挙においてどの立候補者を選ぶかが「自由意志」に委ねられるワケです。

 これをサンデル教授の例題に当てはめると、ワタシたちはブレーキの壊れた電車(社会)に乗り合わせており、進行方向には分岐点(選挙)があります。選挙立候補者(レール)はそれぞれ、自分に任せてくれれば「社会」を良くします(犠牲者を最小限に抑える)と、街角や駅前のロータリーで演説し、ワタシたちはそれを参考に選挙立候補者(レール)を選びます。で、二番目の例題、線路脇で見ている状態とは、他の国の社会状況(電車)を傍観している状態に置き換えられるでしょう。

 自らが所属する社会に関わる問題は、当事者として「運命」を受け容れるしかないワケですが、他国の社会問題に介入するか否かは「自由意志」です。ま、昨今のグローバル化で、世界中の国々が貿易やら金融やらで相互依存関係を深めている事を思えば、他国の「運命」も広い意味では「運命共同体」として、無関心ではいられないのかも知れませんが・・・。

 しかし、社会という「運命共同体」の内に、個人という「自由意志」が存在し、原則として個人の「自由意志」は尊重されるのと同じで、国際社会においても、基本的には各国の「自由意志」を尊重し、介入は控えるべきなのでしょう。でないと、立場が逆転した場合、こちらが他国から介入される理由付けにもなってしまします。・・・それがフェアな国際関係というものでしょ?
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 さて、選挙という「運命」と、投票という「自由意志」の狭間でワタシたちはウロウロしているワケですが、サンデル教授の例題の様に、前方のレールの上に五人居るのか、それとも一人なのか・・・?つまり未来が見えないからワタシたちは悩むワケです。はい。

未来を知ることは出来ない。

この事は好い事なんでしょうか?悪い事なんでしょうか?設問を変えると、未来が判れば社会は必ず良くなるんでしょうかね?

 一方で、「運命」の定義?について考えて見るに、不謹慎を承知の上で例えるなら、自然災害や事故で亡くなられた方々は、

「運」が悪かった。

・・・等と一般的には言われますが、この「運」が、「運命」を指しているという前提に立てば、それがその人の「運命」だったと言っているワケで、そうなると、「運命」の前に個人の「自由意志」は無力であり、「抗いようの無い強制力」が「運命」であるとも意味付けられます。そこで、「抗いようの無い強制力」についてもう少し掘り下げてみるに・・・

 ・・・ま、脳みそが疲れたんで続きはまた別な機会に・・・。


でわっ!