2010年11月1日月曜日

仕事について考えてみる

 人間の労働には二種類ありますよね?人を使う側と、使われる側と。考えれば当然です。みんなが皆、人を使う側にはなれませんし、人に使われる側にもなれません。

 人を使う数に差こそあれ、近所の八百屋も大企業の創業者も起業意識を持ち、商売を営んでいると云う点では同じように思えるワケです。つまり最初の時点で起業者になるか、被雇用者になるかの選択が生じます。考えてみれば当然です。それぞれ個人差がありますから。

 次に、起業を志す人が全て世界一の企業を目指したらどうなるんでしょう?目標を明確に持つことが成功者への条件のように良く言われますし、成功した企業家は皆口を揃えてそう言います。それを真に受けた世界中の若者が、全員世界一を目指し出したらどうなるんですかね?

 繰り返しになりますが、個人々の能力には差がありますから、より能力の優れた者が勝ち、その他大勢の競争者は土俵から降りる事になるのは明らかです。

 「カンブリア宮殿」という経済番組?を見る機会がありまして、少し思うところがあったのですが、成功した企業家は目標というか、ヴィジョンを常に思い描いている・・・言葉を変えれば、いつまでも夢を追いかけ続けているように思えたワケです。

 目標=夢を純粋に、貪欲に追い求める姿には、ある面、目先の利益すら度外視したクレイジーな情熱が無ければ、とても並の人間には真似できる芸当ではないように思えました。

 つまり自分が選んだ仕事を信じ、その仕事を愛し、仕事に対する使命感があるくらいじゃないと、最終到達点=成功者にはなれないのだろうと。

 本来の仕事とは、生活に必要な分だけ稼げぎ、後はノンビリしていればよかったワケですよね?ここで言う「本来」とは大昔の話になりますが、外に獲物を狩りに出掛け、家族の腹を満たせる分の獲物が獲れたら、後はムダに働く必要もなかった頃の話です。

 例え話ですが、その当時、「世界一の狩人になるぞ!」とばかりに、食べもしない、食べられもしない量の獲物を狩りまくっても、獲物の数に自己満足するだけで、冷蔵庫も無い時代のことですから、余った肉は腐らせてしまうしかなかったでしょうな。

 思うに人間とは、基本的に「満ちたるを知る」生き物だったワケです。そして人間以外の全ての生き物は、「満ちたるを知る」生活をずっと営んでいます。人間だけが自分の必要とする分以上に欲しがる生き物なのではないでしょうか?或る意味それは、自然の法則から外れたクレイジーな生き物なのではないか?と。

 自然の法則から外れたからこそ、人間はここまで進化したとも言えますが、それでも基本的に大抵の人は、「安定した暮らし」を求めるに留まり、それ以上の物を求める情熱はナカナカ持てないものだと思うのです。つまり自分の生活が最優先課題であると。

 自分の生活が満たされれば、無闇に夢や仕事にはのめり込まず、情熱も持続しないと云うのが一般的な人間(ワタシだけ?)で、目先の生活や利益をブレイクスルーして、仕事の更なる深化や進化に情熱を傾けるのは、或る意味クレイジーでないと到達出来ない地点のように思った次第です。はい。

 勿論、このようなクレイジーな人たちがいたお陰で、ワタシたちの生活は快適になったワケですが、それでもクレイジーには違いありません。クレイジーと言うと語弊があるようでしたら、「天才」とも言えるでしょう。目先の日常しか見ていない「庶民」には「偉大な発明」なんてとても出来ませんから、それはそれでいいんだと思います。

 問題なのは、彼らのクレイジーな情熱が、「世の為、人の為」に向かえばイイのですが、自分の為だけ、一部の利益の為だけに使われてしまうと、得てして攻撃的になる場合がある。
不調和を生み出す場合があると云う事ではないでしょうか?

 彼らクレイジー・・・もとい、天才から見ればワタシたち庶民の歩みはとてもノロマに見える事でしょう。グローバル化を標榜する企業の中には、日本人が働く日本企業であるにも係わらず、「社内公用語が英語」という企業もあるくらいですが、きっとそれは時代を先取りする為の、必要不可欠な企業戦略なのでしょう。

 しかしそこに働く庶民感覚の社員の中には、困惑している人もいるのではないでしょうか?上昇志向が無いと言われようが、とりあえず給料が貰えればそれで良く、一生「平」でも構いませんという人も、ひとりやふたりはいるハズです。(もっと多いか?)

 例え話になりますが、「資料部」とかの類の部署・・・謂わば「窓際」と呼ばれるような部署で安月給で働きながらも、生活には支障の無い給料を受け取っているので、それに満足している社員に、或る日突然、仕事で使う事の無い英語をイキナリ強要する事にメリットはあるんでしょうか?

 自分の地位に満足する社員がいて、一方では今以上の地位を望む社員がいて、それらを全て一緒くたにして、上昇志向のある社員のみ残し、後はリストラしてしまう。つまり、「会社に安定=生活に安定を求めるような社員は必要ない。」・・・と、分別してしまうのって、「利益優先」で考えれば正しいのでしょうが、「人間優先」に考えるとどうなの?・・・と。

会社が倒産してしまったら元も子もない。

・・・のはごもっともですが、そもそも企業家になる事、仕事を通して何を実現するかをヴィジョンとして持ち続けている天才であれば、そんな事は百も承知の上で社員を雇用する度量がなければ、一流の企業家(人間性も含めた)とは認められないんじゃないでしょうか?要は社員に犠牲を強いているワケですよね?リストラって。
10%の人たちが世界の90%の富を独占している。

という以前の記事で、それでも10%の人たちが残り90%の人たち(庶民)の生活を破壊しなければ、10%の人たちと共存できる。・・・と、書きました。この10%の人たち(多くは企業家でしょうが)が、90%の庶民をないがしろにするならば、庶民との共存を望む、新しい時代の10%の企業家に、その座を譲らざるを得なくなるだろうと云う事も。

 で、まとめると、ワタシが思うに企業には「社会的な責任」があるのではないか?なぜなら、いかなる企業も消費者の存在抜きに成長は成し得なかった。つまり庶民の集合体である社会と企業は、持ちつ持たれつの関係であり、庶民の一員である社員は同時に消費者であり、したがって社員を切り捨てる、雇用を控える等は、結果として消費者の存在をないがしろにしているのと同じ事。その事実に気が付かない企業は、近い将来淘汰されるんじゃないの?・・・と、云う事です。

 せっかく素晴らしい頭脳と情熱を持って生まれ、企業を立ち上げた天才諸子であるならば、その力を以って社会をより良い方向に導く事が、究極の企業人冥利に尽きると思うのですか?


でわっ!