2011年11月1日火曜日

この国の未来 3

 このたびの「東日本大地震」にて被災された方々にお見舞いを申し上げるとともに、災害にてお亡くなりになられた方々のご冥福を、心からお祈り申し上げます。


 今シリーズ?も今回で最終回です。


<転載>

若者はもっと「自己中」になって社会を変えろ~「絶望の国の幸福な若者たち」著者インタビュー~5
2011年10月28日11時30分


大震災でも揺らがない「強固な日常」の存在

―今年は東日本大震災や原発事故によって、様々な問題が人々の身近に迫ってくるという年になりましたね。

古市:そうですね。ただ、僕はそれももう終わったな、という感じもしてるんです。もちろん、実際に被害に遭われた方、自分の子どもが放射性物質にさらされているというリアリティを持つ方々には、切実な問題として今でも「東日本大震災」は続いています。

でも、地震が起こった後、「これで日本が終わる」って騒いでいた人ほど、あっけないほど簡単に日常に戻って普通に暮らしている気がします。実際、震災が起こったときも関西の人は、それほどリアリティを持てなかったんじゃないかなと。東京では天地がひっくり返ったみたいな騒ぎになっている時も、関西では皆普通に仕事してましたから。

政治とか若者とか日本というものに対する認識に地域差があるということも中央に居ると見逃されがちだなということを改めて意識しました。また、地震では揺らがないぐらいの強い日常があるということも再認識しました。

たとえ「中央」の人々が「日本が終わる」とか「日本は再び立ち上がる」とか騒いでいようと、そんなことは関係なしに、ひたすらに自分たちの「日常」を送る人々がいる。それは、端的に強さとして、肯定していいと思います。

また、4月の統一地方選挙結果も象徴的ですよね。原発を抱えている自治体の多くで、原発推進の候補が当選している。原発ぐらいでは変わらない日常が、いろんなところで続いているし、それはこれからもすぐには揺るがないんでしょう。

―今は、ソーシャルメディアを利用して、緩く近しいところと繋がることができます。若い人たちは、そういう日常に皆満足してしまっているのでしょうか。

古市:「若い人」といってしまうと、またざっくりしてしまいますけど、みんな、楽しそうですよね。東京に関していえば、ここ半年の間にレジャーの一つとしてデモというのが定着したことが、変化といえば変化でしょうか。

好きなもの、近しいもの同士で、コミュニティを作っていくと他者に対する想像力がなくなるという批判もありますが。

古市:じゃあ昔は逆にあったんですか?と聞きたいですね。昔だって企業戦士は、その会社のコミュニティがすべてだったわけですし、専業主婦は子どもの通う学校のPTAとかが、その人の社会のすべてだったかもしれない。それが可視化されただけにように思うんです。

逆に、今の方が想像力は広がりやすくなってると思います。本来であれば、つながりえなかったマイナーな趣味の人同士で集まるというのは、現代の方がはるかに容易です。人と人は、昔よりもずっと、つながりやすくなっています。

―ご著書の中では、共同体の居心地のよさが目的を見失わせるという指摘もありましたが、現代の日本において若者が政治的な活動を持続させようと思ったら、何が必要なんでしょうか?

古市:いくつか成功例はあると思います。優秀な人がやっている社会起業であったり、ベンチャーとかが挙げられるんじゃないでしょうか。トップが非常に合理的に、ビジネスライクに物事を進めていく。そういう仕組みを作れるリーダーが、いろんなところに出てきて、そういう人たちがそれぞれの立場から社会に風穴を開けていくというのは、十分にありうるシナリオだと思います。

―昔のように皆で安田講堂を占拠して、、、。みたいなことは起こりえない?

古市:だって、安田講堂占拠してもしょうがないじゃないですか(笑)。それぞれの立場で、社会を変えようと努力して、点を面に変えていく中で成果が出て行くことを目指すほうが、現実的だと思います。

実際、学生運動って何かを変えたんですか?むしろ、「社会を変えるにはデモしかない」みたいな誤った価値観だけ残ったような気がしますね。それに比べて、今の若い人たちの方が勝手に好きなことをやりながら社会起業、ボランティアサークル、学生団体、ベンチャーのような形で、自分たちの関われる範囲で社会を変えようとしている。その方が学生運動なんかよりよっぽど真面目に、社会と関わろうとしている証拠なんじゃないでしょうか。

それこそ、小林よしのりさんがおっしゃっていたように、デモに行くより、家の近くで草むしりしたほうがいい。本当にその通りだと思うんですよ。「社会を変える」という言葉に、世の中の何もかもがガラッと変えるというイメージを持つべきではないと思います。
身近な自分のまわりのコミュニティの人間関係を良くするとか、そういう小さいことの積み重ねのほうがよっぽど大事なんじゃないですか。逆にそこからしか社会は変えられないと思います。

ただ、ついつい研究者としての僕は、そういう風に頑張っている人たちを冷笑的に見がちです。もっと合理的な方法があるだろ、とか思っちゃうんですね。でも当事者ではないし、当事者になる気がない以上、気軽に「頑張れ」とも言えない。そのあたりのスタンスは難しいですね。

当事者じゃなくて、何も成功していない人がいくら「アツイ」ことを言っても空虚じゃないですか。だから僕は、ひとの活動に関しては、ただ生温かく見守ることしか出来ないなあと思っています。もちろん、自分が利害関係者になったら、色々と頑張りますけど。

</転載>


 んm・・・どうなんでしょうね?そこにあるのは「強固な日常」なのか?それとも「強固なシステム」なのか・・・?戦時中でさえ日常は存在しました。人が生きる行為を「日常」という言葉で括るのなら、最近騒がしい中東でさえ「日常」は存在します。例えばエジプトの場合、「革命?」の後で「日常」は良くなったのでしょうか?疑問です。日常があるということはそこに生活の営みがあるという事であり、その「質」とは切り離して考えた方がイイように思うんですよねえ。

 ワタシたちが求めるのは生活の質の向上であり、ま、質の向上と一言で言っても、所謂コミュニティー(村社会)の間ではその価値観もバラバラである。・・・と。

 さらにそういった村社会が渾然一体となったのが現在の社会システム・・・日本であり、渾然一体とは言ってもシステム全体を設計する者によって各々の村社会も巧妙に操作されていることに、水槽の中で育った世代には、ナカナカ想いが及ばないのかも知れませんなあ。ネット上には無限に情報があるんですケドね?

 「それぞれの立場で、社会を変えようと努力して、点を面に変えていく」

 「デモに行くより、家の近くで草むしりしたほうがいい。」

 「そこからしか社会は変えられない」

 抽象的な表現ですが、ワタシなりに勝手に補足させて貰うなら、「日本人のダメなところ」で触れたように、過去の遺恨を断ち切れない「大人」「村社会」を仕切っているのが「元凶」なワケです。所謂「老醜」と呼ばれている人たちが。

 そういった「老醜」の呪縛から自分の所属するコミュニティーを解放できるか?そしてバラバラな「点」としてのコミュニティーを再統合し、日本という社会を、国を、


新しい時代に則した形


に再構成するための共通のビジョンを持てるか?・・・と。

 ま、そのためには日本にとどまらず、世界全体をも見渡す広い視野も同時に求められるワケです。「バカの壁」を越えられるか?・・・と。

バカの壁 (新潮新書) [新書]
養老 孟司 (著)


<転載>

若者はもっと「自己中」になって社会を変えろ~「絶望の国の幸福な若者たち」著者インタビュー~6
2011年10月28日11時30分


より「自己中」に生きることで社会を変えることもできる

―自分の周囲に切実な問題が起きない限り、若者は居心地のよいコミュニティに留まってしまうのでしょうか?

古市:そうでしょうね。だって、今の生活にそこそこ満足してて、心地良かったら社会を変えようとか思わないでしょうから。それがシンプルな発想だと思うんです。

どうやら日本という国には何やら色々な問題があるらしい。だけど、実は何が問題かもわからない。敵は誰なのか?誰に対して怒ればいいのか?何を変えればいいのか?そんなのわかんないですよね。それこそ中東みたいな形でわかりやすい独裁者がいれば、倒すべき敵がはっきりしていますけど、日本はそうじゃないですからね。

―だから、ついわかりやすい方に流れてしまう。「マスメディア」であったり「韓国」のようなわかりやすいものを敵視しがちなんですかね。

古市:そうですね。それに陰謀論は、手っ取り早く「自分が頭よくなった」ような気にさせてくれますからね。「自分以外みんなバカ」という承認欲求を満たしてくれる。「みんな」は騙されているけど、「自分」だけは知っている、と。

―識者の中には、海外でソーシャルメディアを利用した革命や暴動が起こっていること踏まえて、日本でもあと少しで、そういう行動が起きると主張している人もいますが。

古市:うーん、そんなことは非現実的ですし、起こしてどうするのって思います。若者にデモとか革命とか期待している人にまず聞きたいのは、「日本の何をどう変えれば社会がよくなるの?」ということです。中東だったら独裁者がいなくなれば、社会がある程度は変わるということが自明でしたけど、日本の首相を殺したところで何も変わりませんからね。

そもそもソーシャルメディアといわれるFacebookやtwitterを能動的に使っている人なんて一部の情報強者だけじゃないですか。Facebookだって、ほとんどの人がmixi的な使い方をしているだけですし。自分がFacebookで情報を集めて、「これが新しい民主主義だ」と主張する立場にいるからといって、そのものさしで社会全体を測ることには違和感を感じます。

また、新しい技術やサービスが社会を変えるなんてことは、いつの時代も繰り返される「古びた」主張です。例えば、20年前は「衛星放送がベルリンの壁を壊した」って騒がれていました。

twitterなんか、ちょっと面白いこと書いて、複数の人にリツィートされれば、さも自分が社会から受け入れられたような気持ちになります。「政治的な発言するオレ、格好いい」みたいに。そういう意味では逆に革命やデモにつながるような不満をガス抜きツールだという意味で、逆に革命は遠のくんじゃないですか?

それに実際に活動している人は、最早ソーシャルメディア関係ないですから。例えば、津田大介さんは、twitterの第一人者みたいに言われてますけど、やっていることは現地に行って多くの人に会って話を聞くっていう、古典的なジャーナリストと一緒ですから。情報が流通する媒体が変わっただけの話です。もはや、津田さんにはtwitterいらないでしょ。

―なるほど。最後に、同じ現代にいきる同世代の若者にメッセージをお願いいたします

古市:難しいですね。「同世代の若者」といっても、置かれている立場も何もかも違うと思うので。

ただ最近よく思うのは、もっとみんな自己中になったらいいんじゃないか、ということです。自己中というと悪いイメージでとらえがちですけど、自分が好きなことを好きだというのは別に間違ったことじゃない。もちろん、みんなが好きなことは同時には叶いません。だけど、その好きの衝突から、人との対話が生まれる。変に空気を読むよりも、自分の好きなことを言ったほうが、やったほうが楽になると思うんです。

ユニセフの方の話なのですが「人権ってのはわがままのことなんです」とおっしゃっていました。人権っていうと高等な概念を想定しがちですけど、要するに一人ひとりのわがままをいかに認めてあげるかということなのだ、と。もちろん、地球上全員のわがままが通ることはないですから、そこを調整するのが政治です。

だから、難しく政治とか社会とか人権を難しく抽象的に考えるんじゃなくて、まず自分のわがままをはっきりさせることから始めれば楽になるんじゃないかと思います。

あとは変にハードルを上げ過ぎないってことですかね。「コミュニケーション能力が重要」とか言われているからといって、いきなり"リア充"になれるわけじゃない。別に"リア充"なんて目指さなくてもいい。しゃべるのが上手くなくても、挙動不審でも、ものすごくマニアックな趣味を持っていても、意外と仲間は見つかると思います。

だって、朝も起きられなくて、基本的に約束には遅刻して、主食はチョコで、喋るのも下手な僕でさえ、何とか生きていける社会なんですから。

僕は、相当に自己中な人間です。だけど僕が幸せになろうと思ったら、さすがに友だちや大事な人には幸せでいて欲しい。つまり、いくら自己中であっても、たった一人きりの幸せってものはありえない。

すると当然、他者に否が応でも関わらざるを得なくなる。そのための環境を求めていく過程で、それが結果的に社会を変えることになるかも知れない。そんな風に「社会を変えること」を目的ではなくて、結果と考えて、気楽に生きていけばいいんじゃないかなあと思います。

―本日はありがとうございました。

</転載>


 「しゃべるのが上手くなくても、挙動不審でも、ものすごくマニアックな趣味を持っていても、意外と仲間は見つかる」・・・というのとはチョッと違うかも知れませんが、最近自分の身に起きた出来事について話したいと思います。

 先日、昼時に近所の「ビンザン(大衆食堂)」に行きテイクアウトの弁当を買い、その帰りにコンビ二に寄ってミネラルウォーターを買ったときのこと、コンビニに入ると小汚い宝くじ売りの子供がいまして、(外が暑いからコンビ二の中で涼んでいるのか?)と思いつつミネラルウォーターを手にレジに向かうと、ワタシの置いたミネラルウォーターの横にチョコレート・ソフトクリームが「ポン」と無造作に置かれました。まるでワタシが一緒に買うが如く。

 (ナ二?)と横を見ると、そこには件の宝くじ売りの子供が目をキラキラさせながら立っていました。しかも、レジの女の子は(どおすんの?)・・・という目で無言でワタシの出方を伺っています。で、みなさんならどおします?

 ワタシは甘ちゃんなので、(このクソガキm!)と思いつつも、炎天下で宝くじを売り歩いて喉も渇いているだろうと、レジの女の子に(一緒に払うよ)と目で合図し、レジの女の子もそれを理解してレジを打ち始めたら、何故か?クソガキはソフトクリームを引っ込め、値段の安いアイスキャンディーを持ってきました。

 細かく言うとソフトクリームが2万ドンくらい。アイスキャンディーが5千ドンといったところでしょうか?クソガキは要求ラインを自発的に下げてきたワケですが、それもこれも、ワタシ自身も小汚い格好をしていたからではないか?・・・と。つまりクソガキに、(このオッサンもあまりお金持ってなさそうだなm。)と、同情されてしまったのか?・・・と。

 たかられる方が同情される・・・というのも情けないハナシですが、正直その時、クソガキに対して、


お前、割りとイイ奴じゃん。


と思ってしまった次第です。「自分が満たされていない人に、本当の意味で他人のことを考える余裕なんてない。」・・・と、この若者(ワタシから見れば)は言いますが、先日観たNHKの番組では、「東日本大震災」の被災者の為にバングラディシュの貧しい農村で募金を募ったところ、あっという間に募金の入れ物(帽子だったか?)が一杯になったのです。勿論、たいした金額にはならないのは明白なのですが、ワタシはそこに彼らの心意気を見たワケです。

 「おかげ様」「お互い様」という庶民感覚は世界共通なのでしょうな。こと、毎日を生き抜くのがやっとという人たち、毎日を真摯に生きざるを得ない人たちは、生きることの苦しみを知り尽くしているからこそ、同じような境遇に在る他人に対しても、他人事とは思えないのです。

 困っている他人を助けられるか否かは別問題として、お腹が減ったという「現象」は即座に自分の身で理解可能であり、それ・・・空腹という状態が自分のことと考えられないとしたら、今まで一瞬たりとも空腹経験したことに無い特殊な人間か、もしくは人間以外の存在でしょうな。

 ま、したがって「自分が満たされていない人に、本当の意味で他人のことを考える余裕なんてない。」・・・という見解は、


特殊な人間の意見


としか思えないワケですよ。

 それはそれとして、「しゃべるのが上手くなくても、挙動不審でも、ものすごくマニアックな趣味を持っていても、意外と仲間は見つかる」・・・という見解については、案外、


お前、割りとイイ奴じゃん。


といったような、そんな些細なキッカケは十分にあり得るだろうと思うワケです。

 で、手前味噌?我田引水?になるかも知れませんが、「難しく政治とか社会とか人権を難しく抽象的に考えるんじゃなくて、まず自分のわがままをはっきりさせることから始めれば楽になる」・・・の真意は、繰り返し述べている・・・


個人革命


に繋がるワケです。自分が変わらないのに社会が変わるワケが無く、社会を変えようと思うのなら、ひとり一人が変わるしかない。・・・と。

 また、「若者にデモとか革命とか期待するな」と言いたいのかも知れませんが、現代社会のシステム・組織に組み入れられていない若者の方が、革命やデモといった直接行動を起こしやすい立場にあるのも事実であり、望むのであれば、システムに絡め取られて身動きできない「大人」の代わりに社会を変えることも不可能ではないワケですよ。その気があれば・・・。


若く、貧しく、無名。


であることが「革命家」の条件だとは、かの毛沢東の言ですが、社会を変える資質とはそういうコトなんですよ。ワタシ的に付け加えるならば、


ビジョンを持て。


・・・も、忘れて欲しくないと思いますが。

以上。


でわっ!